三 代理(兼拝・遥拝)札所の跋扈問題 その1 ここに提示する資料は有田正氏所蔵の納経帳コピーを見せて貰ったものである。時代は安政四年一八五七のことである。一様ではないが、まずは本来の札所番号寺院。続いて代理該当の寺院などと「兼拝」・「遥拝」等の語句を抽出して並べてみた。なお四十番観自在寺と四十一番竜光寺に対応するものは見当たらなかった。 土佐国から南予にかけて札所の順番通りに対応したものを表として、次に現存頁の在様について「*イ〜ヌ」で少し説明を付けた。言葉足らずではあるが、幕末期三ヶ国辺路時代の珍しい様相である。
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*イ 35 これは表紙開き白頁の次から始まり、傍線部「中山十二番」は朱印版である。四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺。次に42、43相当の文殊院と徳盛寺がある。内容は違った字体の印版であるが、寺番「第四十二番」と角印は同一のものである。つまり大法山文殊院と徳盛寺は同一寺院の別称である。何故かここでは二つに分けて納経印を押しているのである。 *ロ 四十九番、五十番、五十一番、五十二番、五十三番。次に遍照密寺・「四国第五十四番第五十六番本■直作・本尊除厄弘法大師」とある。これは欠番札所に擬せず、除厄弘法大師信仰を前面に打ち出している。 *ハ 五十四番、五十五番、大仙寺(無腮地蔵願王尊)、五十六番、五十七番、五十八番、五十九番。次に26興隆寺「廿六番西寺兼拝」の印版。次に27東光密寺「四国廿七番十一面観世音影拝所」の印。次に久妙寺が「弘法院」とある。別に土佐十七ヶ所の寺院には擬していない。「生木地蔵大士 正善寺」とあり、次に。 *ニ 浄明寺が「第廿四番」・「兼拝」の印版を押している。それから六十番、六十一番、六十二番、六十三番、六十四番、六十五番、六十六番(雲辺寺)、六十七番、六十八番、六十九番、七十番、七十一番、七十二番、七十三番、七十四番、七十五番、七十六番、七十七番、七十八番、七十九番、八十番、八十一番、八十二番、八十三番、八十四番、八十五番、八十六番、八十七番、八十八番。 *ホ 次いで阿波へ。第一番、二番、三番、四番。次「第五番奥院・五百大阿羅漢」、五番、六番、七番、八番、九番、十番、十一番、十二番、十三番(神主丹後守、別当大日寺)、十四番、十五番、十六番、十七番、十八番、十九番、二十番、二十一番、二十二番、「四国第廿三番」で阿波分終り。 *ヘ 次に「安楽寺」とあるが、この安楽寺はどうやら伊予国東部のお寺のようである。「四国廿八番遥拝所」の印がある。(阿波から伊予側に向けて打ち戻ったのであろう。つぎは西進して予州名越の金毘羅寺(川内町、現東温市)である。ここは「二十九番」国分寺に擬している。 *ト 南下して四十四番、四十五番を済ませて反転。「第三十二番」峯寺兼拝法蓮寺とある。久万町露峰(曹洞宗)か重信町上林(真言宗)のどちらかであろう。次は「三十一番土州五台山兼拝」善城寺とある。この寺はまた「中山八番」の印がある。川内町井内の寺か?次「三十四番」に擬した香積寺(重信町田窪)。次「三十三番」は円満山長福寺、本尊神変大菩薩。次「中山霊場岩■山本尊千手観音 円通寺」とあり雲紋に三日月をのせた印をおしている。土佐の番街霊場月山に擬えたのであろうか。次「三十九番寺山遥拝 本尊阿弥陀如来 伊豫松山 大蓮寺」とある。角印には「西方密印」とあるが、松山市東方つまり四十六番浄瑠璃寺や四十八番八坂寺近くの寺である。 *チ 次は重信川を越して北東の山並に向かい予州福見寺「第三十八番」。川内町北方の医王寺「三十七番」。続いて松瀬川の上福寺「第三十六番」。 *リ 東進して三坂峠を越して宇摩郡へ。仙龍寺と阿波の箸蔵寺せてまた打ち戻ったものか。あるいは阿波を打ち終えて(*ヘの際に)著名な番街霊場として中途に札打ちをして先にこちらへ納経を請けて遺していたものか。 *ヌ 最後は安国鎮護禅寺(川内町則之内)洞薬師如来。「安政四年月日」の印と、「豫州勅願所 第三十番」の版が押してある。 以上イからヌにかけて如月廿九日から四月十八日にかけての行程である。 日付から想像するに、四十五番岩屋寺からは箸蔵寺(四月九日)に行き、十一日に仙龍寺、同じく法蓮寺(善城寺・香積寺)から十八日長福寺(円通寺・大蓮寺・福見寺)さらに医王寺(上福寺)となっている。最後の安国寺は不明である。 |