辺路札所、称呼の変容・跋扈について
善通寺紀要 第16号より



 一 石鎚山に関して、札所の変遷を考える その3


〇前神寺 石山別当・金色院・古義真言宗・無
本寺・御室御所釈迦牟尼院室兼帯
 升形 東西七間 榜示石 四国第六四十四番 
 南北八間前神寺と阿り
〜『西條誌 稿本 七』〜


 この『西條誌』というのは江戸在府の殿様松平氏に、四国の領地(西條藩領)の様子を調査してまとめ上げて献納したものである。幕末期天保時代十三年五月に序文を撰している。今回は引用文三行目の「榜示石」の刻字「四国第六十四番前神寺とあり」、に注目。この石が現存して建っているからである。   


「傍示石」向かって右

 この西條誌では榜示石といっているが、札所の寺号石と称してもおかしくは無い。その大きさからしても遍路人達にかぎらず多くの参詣者の目を驚かせたものである。最近では海外の石材が導入されて各地寺院における石造物文化は賑やかなものとなってきているが、前神寺の寺号石は当時としては突出して目立ったものであったろう。文献記録からして文化年中には既に建っていた。十八世紀中頃には出来ていたのかも知れない。
 榜示石というのは天保十三年(一八四二)西條誌での言葉であったが、文化元年と二年の辺路日記には次のように紹介してある。

文化元年一八〇四 『海南四州紀行』
 里前神寺…入口立石アリ、四国第六十四番里前神寺トアリ…
文化二年一八〇五 『四国中道筋日記』
 大道ノハタ南ワキ、御石鳥居大印石見見ゆる、里前神寺奉納


 この立石と大印石がすなわち前述榜示石の事をさして言っているのである。


「四国第六十四番○前神寺」拓影


「六十四・ まへかミ寺」

 面白いことに寺号石の刻字が改変されたことに対応するヘンロ絵図があるのである。これについては本誌『紀要』第十二号拙稿「十八世紀末の遍路絵図世界」に紹介済みである。それは寛政二年一七九〇の発行趣旨をもったもので、版木に改変があり、これによって寛政十二年にはまだ里前神寺を名乗っていたことが知れる。そして里の字をとって前神寺を標榜しだすのが其後のことであり、そうした事実がこの絵図の札所寺名から理解できることを述べたものである。是非参考までに紀要十二号二十六頁カットをよく見られたし。



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