辺路札所、称呼の変容・跋扈について
善通寺紀要 第16号より



 一 石鎚山に関して、札所の変遷を考える その1


 まず「札所」とは何乎?である。

 ふだ‐しょ【札所】三十三所の観音または八十八所の弘法大師などの霊場。巡拝者が参詣のしるしとして札を納める寺院または仏堂。 〜広辞苑〜

 ここでは札を「納める」場所としての寺院または仏堂とある。霊場の語が当てられているように、元来は人為に先だってあった「霊地」なのである。それでは「霊地」とは何乎?同じく広辞苑を見ると、

 れい‐ち【霊地】神社・仏閣などのある神聖な地。霊場。霊境。零区。

とある。神聖な地とある。これは勿論、神社・仏閣があるからではなくて、人為に先行して神聖であったとみるべき場所を言うのである。このことは若き空海の所業を考えてみればよい。抖行脚の砌に登山や窟籠りもするわけであるが、四国路ではとりわけ石鎚山の場合、

 石峰に跨って糧を絶って轗軻たり 〜三教指帰〜

 ロッククライミングでもしたものか、また柱を組み立てて登っていったものか、現在のように鉄の鎖の無かった時代ゆえに、想像を絶する難行であったと推測されるのである。とても「納札」ごとき抒情は感じられない。
 この場合「石峰」は「イシツチノタケ」と訓じている。ようするに山の頂上に登ることである。それは山の頂上が「霊所」と考えられていたからである。寺院・仏閣など人為(人工の建造物など)は見当たらない場所であった。まずはじめにそうした霊境・零区があったことを確認しておかねばならない。
 次に中世における一端を『醍醐寺文書』に見てみる。文献上、用語「邊路」の最古とされるものである。
 
 一、不住院主坊事者、修験之習、以両山抖、籠山千日、坐巖窟冬籠
  四国邊路、三十三所諸国巡礼、遂其芸、円遍門弟不可為山臥之由、
  不存知云々
 *新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』

 右の『醍醐寺文書』は西暦千三百年代後期のものとされ、仏名院院主職の資格争いの目安として、当時の修験者の習=修行は、山林抖や巡礼などの行態(院主となるのに必要な修行の種類について)が述べられているのである。
 石鎚山について考えてみるに、抖も籠山も坐巖などの行態も当然にあったことであろう。しかしそれらとは別に、否!平行してと言うべきか「登頂」ということがあり、そのことがまた特別に取り上げて意識されだしたことも見逃されないことである。
 後年石鎚山については「これより上は、都卒の内院と習伝えて、人に語る事を許さず、登り得るを禅定と号す」(『西條誌』)と称されている。若き空海はこの山頂に「跨った」(石峰に跨って…三教指帰)のである。
 四国最高峰として多くの人たちがあこがれ登拝を望んだものの、真念時代貞享・元禄期)には「六月朔日おなじく三日ならで、参詣する事なし」といった状況であった。とても頂上に登って札を納める所といった按配ではない。 石鎚山に関しての記述がない文書ではあるが中世の修験信仰の行態を考える参考となるものである。
 次に近世の様子について、真念の活躍に三十年余り先がけて、承応二年(一六五三)に辺路した真言宗僧侶澄禅の場合、阿波「一ノ宮」では「札ヲ納メ念誦看経シテ」いる。これは神社の拝殿に納めたのであろうが、その札は紙製のものか板札であったか、また貼付したものかなどのことは詳細は不明である。注目すべきは寺院ではなくて神社で有ったということである。
 ついで注目されるのは阿波南部薬王寺(現今二十三番札所)を過ぎて「海部ノ大師堂ニ札ヲ納」めていることである。また土佐国に入って、「仏崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在リ」ここにも「札ヲ納」めている。
 こうした納札行為に対しての対応、たとえば受領印を押すなどのことについては不明。六十六部の回国納経に対しては受領請け版的事情があったことは知られているが、江戸時代前期に四国路における《納札信仰》においては、まだ札所数は確定していなかったようである。一応真念法師の活動を以て、四国八十八カ所が確立されたと考えられるのであるが、札所としては神社や大師堂、また奇岩妙石のある場所(=霊地と看做されている)が札所として意識されていたことを確認しておく。
 たとえば「遥拝」ということを考えてみるに、このコトバは澄禅の日記録には見当たらないのであるが、代りに「拝シテ」という表現が石槌山に関して出てくる。横峰寺山の西南方に「鉄ノ鳥居在リ、爰ニテ石槌山ヲ拝シテ札ヲ納テ」読経念誦しているのである。大雪の積もった白妙の石槌山を遥拝したようである。それから吉祥寺(現今六十三番札所)から一里、「前神寺トテ札所在リ、是ハ石槌山ノ里坊也。爰ニモ札ヲ納ル也」とある。
 この時代の前神寺というのは現在石鎚神社のある場所にあったものである。当然に此処から石槌山を拝することは不可能である。「爰ニモ」という意味は、石槌山の代理的な存在。つまり本来の札所というほどのものではなくて、付属的な存在(=里坊)だと言っているのである。この時代には石槌山に登るには六月一日のみで、「余時ハ山上不成也」とされていたので、その代わり(つまり代理)に「右横峰ニ札ヲ納」めることになっていた。それが「鉄ノ鳥居」の場所である。
 札所としては石槌山であるが、代理の札所として遥拝可能の鉄ノ鳥井の場所が考えられていた。十七世紀中ごろ(一六五三年)の真言僧澄禅の見解である。


 〇八十八ヶ所の番数規定

 これは真念法師の『四国辺路道指南』で決定づけられたもののようであるが、それ以前に「八十八カ所」の用語は古くは『かるかや』に見られる所である。

 ・・・その数は八十八所とこそ聞えたれ。さてこそ四国遍土は、八十八か所とは申すなり。
『説教集』・新潮日本古典集成より

 説教物語という性格からして厳密な仏教理論があって「八十八」の数値を語っているとは思われない。明確な根拠は乏しい。しかしこの数値は澄禅時代にも生きている。その辺路日記の末部では、

世間流布ノ日記
  札所八十八ヶ所 道四百八十八里 河四百八十八瀬 坂四百八十八坂


と記録しているのである。これは俗世間の情報であり、道に関しては「合テ二百九十五里四十町也」と私見を述べているのである。
 ここで当然に『世間流布ノ日記』というのが問題になる。澄禅は海部の大師堂に「辺路札所ノ日記」の板があり、売っていたことを語っているのである。今のところこの実物らしきものは確認されていない。しかしその系譜に属すると考えられる『奉納四国中辺路之日記』という資料が近年紹介されたのである。

*資料紹介・『奉納四国辺路之日記』、平成二十年三月三十一日、「四国遍路と世界の巡礼研究」プロジェクト、代表 内田九州男。

 これは愛媛県伊予市中山町の玉井家文書整理中に発見されたものである。
 元禄元年土州一ノ宮 長吉飛騨守藤原、という名前で発行されたものであった。その末部に「合八十八ヶ所 道四百八十八里 川四百八十八川 坂四百八十八坂」とある表現は、前述澄禅の記載と数値は全く一致しているのである。
 これはやはり巷間流布の情報が継続してあったことを教えてくれるのであるが、この資料では札所番号が無いこと。そして現今六十四番に相当する前神寺(また里前神寺)が見られず、「石つち山」が、他の札所寺院並みに取 り上げられていることが際立った特徴と言えよう。
 元来は修行(=辺路信仰)の対象としては霊山「石つち山」なのであるが遥拝できる「鉄ノ鳥居」の場所が代理の(札を修める)場所とされているのである。
 つまり登拝は六月一日のみとの規定があったので、通常日には「右横峰ニ札ヲ納ルナリ」と澄禅は書き残している。これは厳密に考えるのであれば単に横峰寺という意味なのか、または「鉄ノ鳥井」で遥拝してからという意味なのか不明。
 どちらにしても構わないとすれば、横峰寺への番付けがややこしくなる。一所として独立した札所なのか、また石槌山の代理としての札所寺院なのか齟齬をきたすことになる。結局こうしたことから、幕末期まで、里前神寺側と石槌山蔵王権現の祭祀権を巡っての差し縺れ、別当寺問題が起こっているのである。
 いずれにしろ『奉納四国辺路之日記』では霊地としては「石つち山」であって、横峰寺は取り上げられているが、前神寺(里前神寺)は取り上げられていない。そしてこの際には霊山「石つち山」の遥拝所として「鉄ノ鳥居」の場所が札を修める場所として考えられていたのではなかろうか?これは現行のような納経信仰隆盛に先んじてあった「納札信仰の姿」を彷彿と想起させるものである。
 澄禅の辺路行には看経読誦は見られたものの、納経請印受領の様子はうかがわれない。現行のような納経帳信仰よりも、納札信仰が顕著であったと言うべきなのである。
 真念が八十八ヶ所寺院を確定するより早くに、「石つち山」に関しての代理札所の存在があったことが想像されるのである。



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