六、真念庵 簡略乍ら真念の活動の一端を述べてきた。次には真念庵の様子を紹介しよう。 寛永十五年(一六三八)に空性法親王が「予土阿讃四国霊場御巡行」した記録を四十四番大宝寺にいた僧・賢明が書いている。その中に「真念庵の右左、別れる道の所にあり」との記述がある。 これは真念の没年に先だつこと五十三年になる。寛永十一年(一六三四)が大師御入定八百年である。若き真念も、その頃には四国路にも足を踏み入れていたのかも知れぬ。澄禅の記録には真念庵の記述がみられず不審を抱かされる。 土佐側の資料として、天和二年(一六八二)に真念庵が建立されたというのがある。延亨五年(一七四八)に藩寺社方の編輯したものから明治二十一年に抄写されたものである。 一同村地蔵、大師、天和二壬戌年大坂寺島真念以願建立為四国辺路足摺山参詣之宿所号真念庵(『土佐国堂記抄録』、岡村庄造氏の教示による) この記述によれば、天和二年に真念の願いによって「地蔵・大師」を本尊とする庵(宿所)が建てられたという。それも足摺山(三十八番)へ参詣する四国遍路の為だとハッキリ書いてある。「真念庵」と号したのは、やはり真念の発願で金銭的にも多大な貢献があったからではなかろうか。しかし建立の時期が賢明の記録(寛永十五年)と約五十年の距たりがあり疑問が残る。 さて、真念庵に真念の存命中に作られた手洗い鉢がある。貞亨三年(一六八六)の銘があり、地元の六左衛門が立てている。そしてこれには御宝号も彫り付けてあり、真念の道標石にも相通じるものである。また真念標石の記念銘貞亨四年よりも一年早く、もしかしたらこの手洗い鉢の刻字の影響で、真念の道標石にも年月日が刻まれたのかも知れない。 いまも残る真念庵の手洗い鉢 次に真念の供養塔。さほど大きくはない地蔵尊の石像であるが、これには「為大法師真念追福造営焉 元禄五壬申歳六月廿三日終」とある。「終」というのは、この石像の造営が終わった日付であろう。 讃岐には元禄六年建立の立派な墓塔があり(現在洲崎寺に移設)、それには「元禄六歳六月廿四日」の刻字がある。それもやはり建立月日ではなかろうか。 庵には本尊の地蔵・大師共に現存するが、残念なのは真念法師の位牌が無いことである。しかし真念と交流の深かった人と思われる讃岐志度浦の寒川金兵衛が、その父母の位牌を残している。 その位牌の裏書きによれば、宝永二年(一七〇五、真念没後十四年)のものであり、真念庵の維持費として仏餉田捨二代(七十二坪)を寄付している。この田地は現在も庵のものとして村の人が耕作している。 讃岐志度浦と真念庵とはまるで真反対の土地である。どうして讃岐の人が、土地の辺地の一小庵に田地を寄付したのであろうか。 真念の墓塔が、やはり志度浦の近くにあったことからもして、この寒川氏と真念との交流が少なからず濃いものであったものと思われる。 享保八癸卯年(一七二三)この時の堂守は宗真という人であったらしい。竹内浄慶という人が鉦鼓を寄進している。それには真念庵ではなく「市野瀬村大師堂」とある。 もう一つ、一回り小さな鉦鼓がある。年代は刻んでいないが一時代前のものであろう。「大坂堂島玉江橋大安 室町住出羽大掾宗味作」とある。 次に線香立て。これにも真念庵とせず「一ノ瀬大師堂」とある。施主はやはり大坂の人で奈良屋寿慶。享保元年に亡くなった釈妙恵と同十七年釈宗寿の冥福を祈ったものである。 また堂内什物として打鐘がある。寛政九年に、近く(現中村市)の人・木戸栄蔵有道が施主となっている。そしてこれには「市野瀬村真念庵」と彫り付けてある。 |