H24.10.26 【長崎奉行、大坂銅座へ】 差出人「荒尾石見守」は第百八代の長崎奉行。(安政元年1854〜同五年1858) 宛名人「久須美佐渡守」と「一色山城守」は勘定奉行を務めたこともある。この書簡当時は大坂町奉行であった。大坂町奉行は江戸の南北と違って「東・西」である。 一色山城守が大坂「東」町奉行であったのは、安政五年九月〜万延二年1861正月。 久須美佐渡守が「西」町奉行であったのは、安政二年五月〜文久元年1861十二月。 以上三名の幕閣が出てきています。書簡の書きぶりも慌ただしく、ただ事では有りません。何があったのでしょうか。上記三名の在任期間からすれば、この書簡はどうやら安政五年のもんもと推測出来ました。そこで『住友別子鉱山史』別巻の年表に目を通して見ました。
つまり、幕府にとって対外貿易遂行上の資金・産銅が危機的状況にあったのです。それは取りもなおさず別子銅山の稼業状況に左右されたわけで、拝借銀三〇〇貫に対して七五〇〇両が許可されるのです。 いつもながら金貨銀貨の計算はややこしいのですが、この際(幕末期)には金一両=銀四十匁の換算で銅山側の要求通りの借銀許可がなされたようです。 〜『新居浜史談』第359号、「幕閣の動向書簡」拙稿〜 【長崎奉行の動向】 荒尾石見守 一筆致啓上候、各様弥御堅固 可被成御勤珍重奉存候、然ハ拙者儀 先達而得御意候通去月十五日 長崎表致出立、道中無滞今八日 西宮駅致止宿候間、明日其表江 致参着、銅座江両日致逗留候、右之段 可得御意如斯御座候、猶着坂之上期貴面候 恐惶謹言 荒尾石見守 十一月八日 成元(花押) 久須美佐渡守様 一色山城守様 人々御中 *登場人物個々の一コマでしか無いのですが、些細なことながらまさに「その時歴史は動いた!」話です。金貨銀貨にしても、金の含有量が相当劣化していることも想像されます。 |