木食僧仏海さんの話 5 〇道標石 本誌220・221号「四国へじを歩く」(坂東章)にも報告してありますが、筆者が目にした仏海造立の道標石について述べてみます。 まず東洋町淀ケ磯橋バス停近く(山手)。 舟型光背の地蔵尊立像。数珠を持っておられます。35×76p。 さきのはまへ三(り) □主木食佛海 □ □ 信士施主とうたいや 与次□□衛 次に室戸市佐喜浜分に入り、小仏崎・水尻海岸のところ。 台石蓮華座ともで1m余あります。やはり舟型で地蔵尊立像。両手には宝珠でも持っておられるのでしょうか。 尊像の上には梵字(地蔵尊種子)のカ字があり、向かって右側、 是5さきのはまへ一里半、のねへニリ半 願主木食佛海 とあり、左側には、 三界万霊 覚然童子 智雲童子 とあります。 先の道標石も佐喜浜へ三里ということでしたが此の辺りは二十三番から二十四番への中途、人家も稀で飛び石・ハネ石ゴウロゴロと称される難所でした。 それゆえに仏海さんは次の村(人家のある所)までの里程を示すと共に、お地蔵さんの尊像をすえて、かってこの辺りに没した、行き倒れ遍路の冥福を祈ったのではないでしょうか。 また戒名が刻してあるのは、施主又は仏海さんにゆかりの人達と思われます。 単なるしるべ石として以上に、仏像はそれを目にした遍路さんにとってよりなつかしく慈愛心を感じさせるものです。 もう一基仏海さんの道標石があります。佐喜浜の郷土史家・松野仁氏に教えていただきました。 佐喜浜の南、大谷墓地の所に小祠があり、その中に仏海さんの道標石像がすえてあります。 墓地の近くということもあってでしょうか、よく祀ってあります。 やはり舟型光背の尊像石です。 左遍んろ道 願主木食佛海 刻字は右の通りですが、立像が何仏なのか不明。梵字も剥離したりしてよくわかりません。 阿弥陀如来の種子キリークか釈迦如来の種子バクなのか判断し難いのです。 仏像の印相もよく似ており、どうもこの尊像が何仏なのかわかりません。 地蔵菩薩か観世音菩薩の可能性もあるのですが決定しかねます。 実はこの道標石の尊像によって仏海さんの信仰を理解する事ができるやも知れないのですが、誠にもって残念です。 先の二基のような施主の名や戒名も刻んでありません。 〇阿弥陀信仰 仏海さんが刻像行者として、三千体の地蔵尊を造られたことは既に述べた通りですが、その他自身作ではなく願主となって仏師や石工に依頼したものもあります。 大坂の仏師・田中主水に依頼したものが多く、就中、風早西国三十三観音と弥陀三尊は大規模なものでした。 仏海さんが廻国行脚の途中何度か西国霊場も巡拝しておられます。これは観音信仰ということもあったでしょうが、それよりも西国霊場の信仰が強かったのかも知れません。 また、故郷猿川の木食庵には《利釼名号》というものがあります。 いわゆる「南無阿弥陀仏」ですが、この書体が剣先のごとく尖っています。 本誌230号一面のカットを参照して下さい。行者学心という人の札ですが、これが仏海さんが故郷に納められた名号の書体とよく似ています。 正面に「南無阿弥陀仏」とあり、向かって右側には、「利釼名号弘法大師御筆」とあります。 そして左側には「勤施行者・木食仏海(印)」とあります。 「勤施行者」ということは、この弘法大師の利釼名号(念仏)の札を勧進活動の際に配っていたことを物語っているのではないでしょうか。 これは仏海さんのゆかりの寺、高野山一心院谷正法寺、もしくは師僧宥秀阿闍梨に浄土系の信仰が流れていたからでしょう。 直接にアミダ様を信仰するというのではなくて、高野山の浄土信仰による影響と思われます。 晩年には法華経の読誦が大きな信仰活動となっていますが、日本廻国の折には諸経のうちに阿弥陀経も書写して寺院に納経しておられます。 木食行道(微笑仏で有名な刻像行者)の言葉に「八宗一見」というのがありますが、仏海さんも真言僧であり、そして地蔵尊や阿弥陀さん、法華経等の信仰を持っておられ、最後には高祖弘法大師に倣って入定留身されました。 宗教的にはマンダラ的といい、神道的には百千万(ももちよろず)の神々を拝し、天地一杯の神仏(冥霊)と共に衆生済度ーその内でも特に四国遍路者への摂待援助に意を注がれたのが他ならぬこの仏海さんでした。 〇 以上あらましですが仏海上人について述べてみました。細部については割愛しましたが、ともあれ仏海上人の霊性・求道一筋の人格を感得していただければ幸いです。是非共四国遍路の徒次、この仏海庵への参拝をおすすめします。 国道からすぐの所、旧道の端にあります。 了
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