木食僧仏海さんの話 3 〇再度の出家 出塵の志を果たし、故郷の仏堂修理や、病人の加持祈祷などの仏事善行の日々を暮していたのですが、まだまだ四十過ぎの仏海さんも期する所があったのでしょう。四国遍路の旅に出かけます。 なお故郷での仏海さんの所業について、寛応さんは次のように誌しておられます。 …日盛ンニシテ万人招カザルニ群ヲ成シ、好縁ヲ結ブ。金銀求メズ、 自カラ臻リ諸願ヲ成ズ。実ニ謂ウベシ。末世之大導師也。 いわゆる法力が顕われたということではないでしょうか。 二十七年間に及ぶ諸国行脚と修行練磨の賜物といって良いでしょう。 しかし日々参集の人々に接して仏法流通の結縁をなしていても、木食行者として、且つ高祖弘法大師の末徒として物足らぬ想いにとらわれたのでしょう。 もとより一処不住の行者としての菩提心が盛り上がったのでしょうか。故郷をあとに四国路へでてゆきます。 こんどは諸国行脚ではなく、四国遍路の行者としての旅です。 宝暦五年の次のような勧進文により、多少なりともこの頃の仏海さんの気持を憶測することができます。故郷での盛名をあとに、四国遍路に没頭していたのです。 〇勧進文 一、愚僧義大願によりて四国廿一度相廻り、願成就。為供養之、土州安喜郡佐喜濱飛石と申所に、摂待致建立候。然ども自力に叶がた記により他力を願ふ所、御志之施主ハ壱人前十二銭宛にて、戒名俗名過去帳江写し、大師の御宝前に於ゐて廻国遍路回向いた■処、猶ス、御志之方ハ摂待料、百文宛にて一日の施行■供養為成申候。右御信心之方ハ御志を希者也。 宝暦五乙亥歳正月吉祥日 願主高野山 仏海 以上わずかな文章ですが仏海さんの意思表示(願意)を述べたものだけに貴重なものです。 (1)四国巡拝廿一度 (2)摂待庵建立(飛石) (3)施主募集 (4)摂待料 これら四点について考えてみましょう。 まず(1)の四国巡拝廿一度は「大願」あってのことのようですが、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。考えられるのは、高祖弘法大師への報恩謝徳のの行として「遍路を対象とした善根摂待」です。 少なくともこの宝暦五年以前に廿一度の巡拝を成就していますから、宝暦二、三、四年は四国遍路に没頭していたのでしょう。 「奉供養四国修行十五度諸願成就所」と刻んだお地蔵さんもありますから(年代不明)、四国遍路修行に仏海さんが打ち込んでおられたのは確かなことです。 (2)現在の仏海庵は土佐の室戸市佐喜浜(の少し北側・阿波よりの村)入木にあります。しかしこの勧進文(宝暦五年)の時点では「飛石」(入木のもう少し阿波よりの地点)となっています。 (3)壱人前十二銭というのはどの位の価値のものだったのでしょう。(4)の百文に比べて、随分と少額のように思われます。 しかしこのように少額でも、多くの施主を結縁していくのが勧進聖の真骨頂という処なのかも知れません。 「戒名俗名」を「過去帳」へ写して回向したとありますが、生憎とこの過去帳は残っていないようです。 しかし供養塔などに多くの戒名や俗名などを刻んであり、過去帳の一端をうかがうことができます。 (4)摂待料は往来の人々つまり四国遍路の人々に対しての善根摂待の施行費のことでしょう。 なお仏海さん没後にも文政期には大きな茶釜が造られ、往来の人々に湯茶の接待が行なわれています。 〇摂待供養塔 宝暦十年(一七六〇)に勧進活動も一応落着したのでしょう、入木の庵(仏海庵)の前にお地蔵さんが造立されています。 台座正面には「摂待供養塔」と刻んであり、「奉納法華 一字一石」の刻字からすれば、猿川の宝篋印塔のように、法華経一字一石に書写して尊像の下に奉納(埋経)したのでしょう。 昨年十二月に参った時にこの供養塔のまわりが綺麗に掃き清められているので驚きました。 仏海庵のすぐ前、墓処の傍らに建てられているのですが、近在の人々の仏海さんに対する信仰心が偲ばれます。 さて、先程の勧進文で願主高野山仏海と名告っています。そしてこの摂待供養塔では、「南山修行者・木食仏海」とあります。南山というのは高野山のことです。 これなどからして仏海さんはこの時点では高野山の修行僧としての意識が強く当地に居着く決心をしていたものかどうか断定できません。 また「行年六十一歳」というのが問題です。『仏海叟伝』のいうように「宝永七年」の生まれとすれば、宝暦十年には数え年「五十一歳」の筈だからです。 なおこの供養塔には十三名の戒名が刻んであります。 延誉宗壽 雲誉光等 松誉浄慶 摂誉受慶 明誉休心 休誉清心 法意信士 妙宗信女 一誉宗純 性誉法真 秋蓮馨實 心光照月 三界万霊 春詫慈誓 前述のように、宝暦十年の時点ではまだ当処(入木村)に居着いて、やがては入定するなどとは思っていなかったようです。 明和六年(一七六九)に入定することになるのですが、この地に宝篋印塔を建てたのは宝暦十四年三月のことです。 入定の五年前のことですが、この宝篋印塔々身下部に自身の石像を納めています。 (仏海上人は、この石塔下に生きながら入って、土中入定されたのです。) |