木食僧仏海さんの話 1 あごに白いヒゲを蓄えたやさしいおじいさんです。 「仏海さん」と呼ばれ慕われています。字(あざな)は如心。現在の愛媛県北条市の猿川に生れたのは、宝永七年(1710)、今から約二百八十年前のことです。 生まれつき仏縁の深い人だったようです。数え年十三の時に求道の旅に出ています。数え年十三――現在の中学一年生に相当しますが、この年で人生の師を求めての行脚に出たというのです。 時の庄屋と悶着があったとの言い伝えもありますがもう一つ考えられるのは両親の死去です。両親でなくても片親の死によって無常観にとらわれたということも考えられます。いずれにしろ確かな事は不明ですが早くから出塵(出家)の志に到るには仏縁が強かったのでしょう。 近在の周布郡・桑村郡・越智郡等に遊ぶこと三年。仲々師とすべき人に出会えなかったようです。 周布・桑村郡といえば五十九番国分寺から、六十番横峰寺にかけての地域です。 生地北条の猿川から山越えすれば案外に近い場所です。しかし具体的にはどのような遍歴であったのかは不明です。 越智島というのは、単一の島名ではなく行政上の区画をいいます。現在の生名島・岩城島・大三島などの松山藩領をいい仏海さんの生まれた風早郡・北条市附近の島を風早島と称していました。 三年間近在の名師を尋ねて歩いたのですが、これと思う人には行きあたらなかったようで、次には対岸の芸州(広島県)三原に渡り全国行脚を意図したようです。 益々出塵の志がつのったのでしょうか。「野ニ宿シ山ニ伏シ」といった行乞の旅です。 時に享保九年、十五歳。一先ず伊勢の大神宮に参詣して「出塵の大願」の成就を祈っています。 それから西国三十三ヵ所の観音霊場を順拝して次に高野山で修行しようとしました。 ところが山麓の民家に宿を取り「宿志(出塵の志)」をのべると、 汝若齢ニシテ、剰サヘ貧窮也。必ズ歴ニ倦ベシ。如ジ、我ニ従ッテ三年ヲ過ヨ。 と、主人がさとします。 まだ年が若いし、無一文では思うように修業もできないから、自分の所で働いたらどうかと、やさしい言葉をかけられたのです。 仏海さん(この時はまだ俗名の太良松)の心中はどんなだったでしょうか。 家を出てきたのに、三年も寄寓するというのは、余程この家の主人が良い人だったのではないでしょうか。 「薪水ノ役ヲ取ルコト」三年、約束通りこの家をあとにして高野山に登り、一心院谷の正法院に身を投じています。 時に十八歳。まだ正式の僧侶となったのではなく下働きですが、五年後の二十三歳になって「落髪改衣」――つまり髪をそって僧衣の着用を許されています。この時の師僧は「宥秀阿闍梨」という人です。 〇一心院谷 現在の高野山金剛峰寺の裏(北)側の辺りを五室谷といいます。そこからもう少し北側の辺りを一心院谷といっていました。現在では巴陵院・蓮華定院・西室院などのお寺があります。 正法院というのは、明治期の高野山の絵図にも見当たりません。 また一心院というのは、覚鑁上人の念仏信仰の師、明寂という人が開基のお寺だったそうです。 江戸中期においても、この一心院谷辺りは念仏信仰の影響下にあった、高野聖の拠点であったようです。 これは後に紹介する北条市木食庵に祀ってある弘法大師御筆の「利剣名号」に関連しています。 さて享保十七年、二十三歳で一応の僧侶となり、翌年正月二十三日には諸国歴の旅に出ます。 この歴が高野聖としての勧進活動であったのかどうかもよくわかりません。しかし宥秀阿闍梨のすすめもあったことでしょう。 仏海さんの性格本志からして、修行を主目的とし、霊山での修練苦行をしながら諸国行脚(回国)をしたのです。 西国霊場三十三観音を初めとし、富士山・関八州を巡り享保二十年(一七三五)二十六歳の三月二十五日から、 五穀並ニ塩味ヲ絶チ、菜食飲水餓ニ充テ いわゆる「木食戒」をもって湯殿山に参籠しています。 〇木食 もくじき(木食)というのは、五穀(米・麦・粟・黍・大豆)を食さず、塩味を使わず、「菜食飲水」ということです。 当然火は使いません。 湯殿山といえば修験道のメッカでもあり、また木食行の行きつく果ては、この地にミイラ仏として完成しています。 享保二十年三月二十五日というのは、仏海さんがこうした木食の生活に入った記念すべき日だったのでしょう。 どの位の滞在であったのか不明です。しかしここ出羽の湯殿山の木食行者に接触して、少なからず得るところがあったのではないでしょうか。 〇彫刻僧・泉眼和尚 故鶴村松一氏の調査では「泉眼」というのは「潜巖」が正しいそうです。 この潜巖和尚が地蔵菩薩の尊像を彫刻して、有縁の人々に施与しておられました。 それを目にして、仏海さんも地蔵尊の刻像をならい有縁の人々に授与しながら取り敢えず一千体を目標とされました。 刻像を始めたのが二十七歳。北海道に足を踏み入れたかどうかは不明です。奥州から北陸辺の霊山霊地にまいり、四国八十八ヵ所や西国順礼に赴き、志摩国阿乗村長寿寺に至り地蔵菩薩の損像一千体目を彫刻、施仏を成満しています。 時に三十一歳、元文五(一七四〇)年のことです。 地蔵尊一千体の施仏が成就したのでホッとされたことでしょう。これまでに足かけ五年かかりました。 |