廿一ケ所参りのこと ~同行新聞 昭和62年3月1日 第309号~

 その2

 〇破れ札



 カットのごとく破れた紙片があります。全部は解読できませんが、他の資料なども参考にして、次のように補って読んでみました。

 まづ右側、題目。

弘法大師様

△参詣日 施主

〇御茶湯日

 次に中の上段から。

正、五日千日ニ向

 十六日六千日ニ向

二、七日五千日ニ向

  八日八千日ニ向

三、四日二千日ニ向

 十五日五千日ニ向

四、五日五千日ニ向

 …以下278号を参照して下さい。下の段に記してあるのが他の資料になく目新しいものです。

正・・死出の山にのぼらず

二・・六道の辻に満よわず

三・・三途川わたらず

四・・けんのやまのくをのいがるゝ

五・・ごくそつのせめに合づ

六・・か起道におちず

七・・ちく生道ニおちず

八・・志や道に落ず

九・・へび地ごくおちず

十・・はりの□ニかゝらず

十一・・□んていの地獄ニ落ず

十二・・むけん地ごくニ落ず

 一部不明部分もありますが、どうやらその月々の参詣によってお参りの功徳が違うようです。

 次に左の欄。

△右の日三年三月の間かゞさず参る人ハ
何事も心の儘ニ不叶といふ事なし。

〇右の日三年三つきかゝさず御茶とを□る人ハ
六志んけんそく迄□□ぜん根也。
又志らぬ人ニ教ゆ連バ御□の躰を作りく□……徳を得るな□

 どうも完全に読めませんが大体において278号のお札に添えてある文と同様の意味合いのようです。

 なおこの参詣日の日付については、六十四番前神寺の大師堂にも掲額してありました。

 

 この廿一ヶ所は一番札所が、本四国59番の国分寺で他にも、58番仙遊寺・57番栄福寺・56番泰山寺・55番南光坊もそれぞれ参加しています。
 現在ではここ今治付近での「七ヶ所参り」(本誌224号・納め札は語る・その七参照)はきかれなくなっていますが、どうやら廿一ヶ所参りに吸収合併されていったようです。
 これは天領と今治藩領という境界(本来は自由勝手に往来できなかった)の問題もあったからでしょう。

 『今治夜話』という本によれば、

〇府中七箇所

国分村国分寺 別所村仙遊寺 八幡村八幡宮(つまり栄福寺) 徳重村一宮

小泉村泰山寺 馬越邑安養寺(県村円明寺前札所) 別宮村南光坊

納札之文曰、奉納府中七箇所、同行弐人 現当二世安楽。

とあります。
 やはり天領との問題があって右の様な七ヶ所になったようです。

 元は安養寺のかわりに54番の延命寺が入っており、結局本四国54番から59番までと、一之宮(徳重村)を加えての七ヶ所であったようです。
 徳右衛門さんが、この七ヶ所を廿一ヶ所という形態にしたのも時代の要請であったのではないでしょうか。


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