四国遍路大師信仰の世俗化について
善通寺紀要 第20号より



 その2


○納経帳その一 【昭和九年「石川多み能」の小旅行、遍路旅】


 これは遍路旅というより、遍路信仰に乗じての小旅行、いわば物見遊山である。六十三歳の老婆(一人旅かどうかは不明)が為したもの。この老婆宅は遍路札出現の石川家とは近隣に当たる。前述小庵「三栗山 地蔵院」に参って同じ絵札(※1)を入手していた。

 四国本札所としては、六十八番から八十四番屋島寺までで、八十一番白峰寺・八十二番根香寺の二ヶ寺は省略している。山道で難儀なのは避けたのであろうか。

 昭和九年といえば、弘法大師の千百年忌にあたる。それで通常の納経印とは別に特別な記念スタンプが押してある。各寺院ごとに趣向を凝らしたもので、これが又なかなかにマニアックなものである。

 たとえば七十五番善通寺のものは、大本山らしく十六弁の菊紋をあしらったおだやかなものとなっているが、「弘法大師千百年忌参拝記念・屏風浦弘法大師御誕生所」と、菊紋の中に「善」の字をあしらったものとなっている。

 ひとつは弘法大師の児尊像と両親の並んだ御影図、もうひとつは七十五番札所としての納経印。小生昭和四十九年の遍路時の納経印とほぼ同様の朱印が押してあるが、寺番号と寺号印は角で、真ん中に変わった字図様印、他所では種字(梵字)印がほとんどであるが、善通寺はいつ頃からかこの変わった字図様印(空海の字模様)を使っている。昭和九年、弘法大師入定千百年忌として四国遍路界のみならずかなりな動きがあったようである。

年表・一九三四(昭和九年)
弘法大師一一〇〇年御遠忌
『大阪朝日新聞』三月七日付より「四国霊場新遍路」掲載
「モダン遍路」なる語が登場

大阪朝日新聞社が中心となり「弘法大師文化宣揚会」設立
「弘法大師と文化展覧会」開催
安達忠一『遍路だより』刊行
─二〇〇五『四国遍路の近現代』、「モダン遍路」から「癒しの旅」まで 森正人─

 多種多様の動きがあったことには間違いないが、弘法大師空海という人物顕彰の過程として遍路信仰が大きな役割を負っていたと考えられるのである。民族的なレベルでの大師信仰(例えば大師泉とか食わず芋などの奇跡譚)から、文化人・知識人としての空海研究が、歴史科学的に新しく始められた時期だったともいえるのである。こうした時に四国で演じられていた遍路世界の水脈に、文化人をはじめ僧侶方も惹きつけられていったのである。

 昭和九年石川女は六十八番札所観音寺から八十四番屋島寺までのうち、山寺の八十一番白峰寺と八十二番根香寺を省いた十ヶ寺にしか札所参りをしていない。十ヶ寺という意識よりは、大本山弘法大師御誕生所善通寺に参ればそれで良い、といった気持ちが強かったのではなかろうか。ついで参りではなく、近在の札所も加えての十ヶ寺参りである。八十四番屋島寺には源平合戦の知名度もあって、参ることになったのであろう。



※1
旅の僧が腰掛けて休んでいる所で、女人が栗を差し出している絵です。僧の後には栗の木が描いてあります。実も見えます。由来文を読み下して見ましょう。
そもそも当山安置御本尊は昔高祖弘法大師、四国開歴の御みぎり、此所に御休息遊ばされ、その時一人の童子現われ、大師にこの栗の実を献上したまう。大師空腹の節大歓喜斜めならず、その時草木成仏の印を結び、一刀三札の尊像を彫工し、この所に御堂を建築し、その時大師童子に告げて曰く、これより年に三度の実を熟す、正にこの童子地蔵菩薩の化身也、末代衆生のためこの由来を永続、謹て礼拝し不思議は世々に新たなり(但しこの栗は諸病の護符なり)。
伊予国宇摩郡関川村木ノ川  三栗山 地蔵院


三栗山地蔵院



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