御室本山・仁和寺参詣の記念品(刷り物)のこと
善通寺紀要 第19号より



 その7


 <付記一> 御室八十八ヶ所霊場絵図などの使用文字について
漢字のかな読みのこと

 A・B・『道指南』それぞれ御詠歌を活字化してみたのであるが、活字化に際しての使用文字について、蛇足ながら少し説明をしておこう。

 B・Cの勧奨文では、

盤=は 尓=に 志=し 遍=へ 連=れ =より 王=わ 介=け 者=は 登=と 本=ほ 乃=の 里=り 満=ま 古=こ


 御詠歌の場合、まずAでは、

農=の 志 能 尓 免=め 徒=つ 美=み 世=せ 介 与=よ 堂=た 年=ね 流=る 路=ろ 春=す 本 万=ま 羅=ら 越=お、を 者 那=な 連 奈=な 満=ま 里 累=る 盤 古 王 須=す 遍 類=る 川=つ 瑠=る 見=み 亭=て 袮=ね 婦=ふ 怒=ぬ 佐=さ


 次に、B、

連 志 能=の 徒=つ 志に濁点=じ 記=き 古 年=ね 乃 介に濁点=げ 者 本に濁点=ぼ 尓 里 阿=あ 王 年 徒 川 川の濁点=づ 満 本 盤


 次に真念『四国邊路道指南』では、

農=の 能=の 尓=に 免=め 徒=つ 美=み 世=せ 介=け 与=よ 堂=た 年=ね 流=る 路=ろ 春=す 本=ほ 万=ま 羅=ら 志=し 越=を 者=は 那=な 連=れ 奈=な 満=ま 里=り 累=る 者濁点 盤=は 須=す 古=こ 王=わ 類=る 川=ツ 璃=り 見=み 亭=て 袮=ね 婦=ふ 怒=ぬ 佐=さ


 このように現代表記と違った文字感覚で以て詠歌(の歌意)を綴っており、また原稿段階での誤植も考えられる。基本的には五七五七七の三十一文字であるのだが、AとBでは配字の型も明らかに違っている。『道指南』においても前二者とは違ったものとなっている。その上に訓読みの為の使用漢字にも微妙な異同がみられるのであるが、ここでは歌意を考える上で問題となる場合について少しばかり考えておこう。

 まず三十一番五台山。


五台山(B)

 A ワ連も子なれバちこそ 本し介連
 B 王れもこなれバ ちヽそ本し介連
『道指南』 王れも子なれバちこそほし介れ

 Aは『道指南』に同じ、Bは違っているが『先達教典』は『我も子なれば乳こそほしけれ」となっている。これはBの原文コピーを見て貰えば分かるように、「こ」ではなく「ヽ」である。版下書の誤りと考えられる。

 このほかにはBの七十八番脱字(へ)と八十八番の誤植(ぬ→ね)があったが、ほぼ真念時代の詠歌に従ったものとなっている(なお今回は各々のフリガナは省略)。



<付記二> 京都東寺での施本

 たしか京都の三弘法とかの言い方があった。仁和寺と東寺と大覚寺であったか。四国遍路の納経帳で冒頭に仁和寺から打ち始めたものを見たこともある。京都の人であったか。とまれ、今回は御室御所仁和寺と四国遍路に関連した絵図(刷り物)を紹介したわけであるが、もう少し京都の寺院と関連した話。

 ひとつには東寺「茶所預 和介」の施印本。『四國八十八ヶ所巡拝心得書』また『手引道中記』という。

小本一冊
そこ豆王らぢくひの
徒希薬壱ふく
施之者也

とある。文化辛未年五月。



<付記三> 御室仁和寺の寺侍のこと

 次に《寺侍》の事。仁和寺の久富遠江守について詳細な記録はないようで、

八十八ヵ所巡り西門から成就山麓にかけて、四国八十八ヵ所霊場を模した「仁和寺成就山 八十八ヵ所霊場」がある。約三km、二時間の行程。
 江戸時代、一八二九年に久富遠江守文連が四国霊場から持ち帰った土を元に諸堂が完成した。

 といった按配の由。文政十年(一八二七)に、仁和寺第二十九世門跡・済仁法親王の御本願によって、仁和寺成就山八十八ヵ所が開創されたようである(仁和寺パンフレット記事より)。

 遍路ではないが御室御所の寺侍が関与、登場している文書が土佐にある。幕末安政時代に三十三体の観世音の開眼を御室御所で受けた話。元文二年(一七三七)制定されたという「土佐西国三十三観音霊場」に、新しく三十三観世音の縮堂を経営した際に御室御所の開眼を受けたというもの。仏師が皇都禁門法橋賢慶竹内右門だったことにもよるのであろうか。

 御室御所への開眼願上の文書を取り次いでもらったものである。

御室御所
真乗院殿御内
本崎正親様
三上佐内様

 この願いに対しての御免書は、

 右今般依内願
僧正御方格別之以
思召御開帳被為 成候
後永大切可相心得依而相達候事
御室御所
真乗院殿内
安政四年本崎正親直義(花押)
 巳五月三上佐内慶成(花押)

 このときの観世音三十三体は土佐高知の団子堂に安置されたものであるが、御所の寺侍の名前が、四国の地で珍しく垣間見られるものとして参考までに紹介した次第である。



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