徳右衛門丁石の話

 その7


 前回使用のモデル図は六十五番三角寺にある徳右衛門丁石です。番外札所奥の院へのしるべとなっています。本札所以外の場所へのものは珍しいことです。仙龍寺が特異な霊場であったからです。承応二年(1653)に辺路した澄禅師も筆舌に述べがたき場所であることを記録しています。また貞享二年(1685)大淀三千風は「大師秘蔵の地」として「一軸」を残しています(現在不明?)

 さらに注目すべきは、木食仏海上人が当山に登り「高祖大師の遺跡を拝し、信心忽ちに発」ったということです。これは上人の前半生を記した『遍照庵中興仏海叟伝』で述べています。この発心により仏海上人は直ちに千体の地蔵尊の彫刻を成就しています。山籠二年(寛保元年1741、四月八日~)で成し遂げているのです。本札所でもないのに徳右衛門丁石が建てられているのには、やはり三角寺奥の院が特別な場所であったからでしょう。

 施主は阿波徳島大師講中の坂東氏ですが、この人は何者であったか不明。またこの標石の石材が撫養石なのも気にかかるところです。徳右衛門の活動に続き「まるでバトンタッチ」したかのごとく、照蓮の「四國中千躰大師」標石が建てられてゆくのですが、まさにその石材こそ撫養石なのです。徳右衛門は当初には伊予大島の花崗岩を使っていたようなのですが、時と所により、種々の石材を使っているようです。


拙著『木食僧、仏海上人伝』1987


奥の院仙龍寺『四國遍禮名所図會三巻』より


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