徳右衛門丁石の話

 その6-2


 さて町石は距離を全面に押し出したものですが、こうしたものが立っていることで往来者(辺路人)が参詣道にいるんだと自己確認できます。つまり場所(位置)と目的地への距離が分かるわけですが、もう一点往来者にとって重要なことは分岐点(交差点)での進むべき方向の問題です。そこに立石があることによってどちらにしても位置確認が出来るのですが、その地点から前方へ向けては左右の「方向」と「距離」のことが道標石にとって要求されているのです。

 道数の少なかった中古においては距離が先行しての関心事だったようですが、やがて往来が増えて道が交叉するようになると、左右直進の方向性が問題となります。こうした状況において標石の形態刻字内容にも流行り廃りが起きています。真念の活躍はどちらかと言えば方向性に目を向けたものでした。その後徳右衛門が距離に注目して町石を建てていったのです。まさに中世的な町石を四国路に里程石として布置したのです。ー小生はこれを、「町石の復権」と評しています。

 〇町石の復権、復活と言っても良いのでしょうが、十三世紀からの動きが近畿地方を中心にあったわけですが、四国路でも十四世紀からのものが知られています。そして貞享期に真念の活動があったのですが、それに続く動きとして四国各地での丁石地蔵の建立が目立ちます。ほそぼそと続く流れですが、まずは宝暦前後の特徴と思います。そうしたところに丁よりも長い里程問題に徳右衛門は挑んだのです。 


『高野山町石の研究』三角寺奥の院へ五十八丁


雪渓寺へ十一丁の徳右衛門町石を祭祀している小祠


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