徳右衛門丁石の話

 その40


 〇五里石隠没再浮上一件 H22.3.2記

 本当に驚いた話。たしか今年に入ってK氏より国道端にしるべ石が立っている。それも他の手水鉢などの石造物も一緒に転がしてあるのだがといった話であった。雑事に身を任せて見に行くことを忘れていたのである。それが昨日雨模様であったが、こんなものだと写真を持ってこられたのである。刻字はよく読めないのだがといったことであるが、「三角寺・・五里」とあるその形状を見ていて関の戸にあったという石を思い出したのである。

 その石は願主徳右衛門で確かに立っていたのであるが、昭和五十九年『四国遍路道しるべ、付・茂兵衛日記』発行に際しては既に紛失し行方不明となっていたものなのである。ところが写真は残っていた。古文書会のリーダーであった川本実氏が撮っていたのである。前掲書24頁に掲載してある。

 さっそくこの写真と比較して見ると正面「五里」の刻字の傾きなども一致しており、さらに大師座像の向かって右下の欠損部まで一致しているのである。間違いなく願主徳右衛門の丁石である。

 どこかに一寸書いたかも知れないが小生新居浜に来て間もないころ、30年以上も前のことになる。昭和五十年ころ、船木のゴルフ場あたりから関の戸辺を車で散策していた時に未舗装の道路であったが、しるべの立石があったのを記憶しているのである。当時は刻字などについては読み込んだ覚えはないのだが、標石であった。その後見かけることはなかったが、それこそこの徳右衛門の五里石でなかったのではないかと、今更に思いが募るのである。

 かっては新居浜東端宇摩郡境にあったものが、新居浜市と西条市の境近くにまで移動しているのである。どう考えて見ても30年前の道路工事で穏没していたものが再浮上したというところである。

 かって道標石の所有管理問題が今治で噂されたことがあった。現在でもこの問題は消えていない。その立石は誰のものなのかということである。公私混同というのか、また不問というのか、何かが起こらないと改めないことが多い。たかが一本の石柱ではないかと、大見えを切っているのでもない。しかし納まるべきところがあるはずである。が、しかし…。





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