徳右衛門丁石の話

 その4


 とにかく百文は一見に如かず。今年に入って38番足摺山金剛福寺門前の標石と88番手前大石の徳右衛門標石を久しぶりに見たのである。特に大石(さぬき市長尾)の道標には格別の思い出がある。それは刻字に「寛政六年」を見つけたからである。つまり丁石建立を発願した当初のものであるからである。

 それまでこの刻字を読み解いた人はいなかったように思う。昭和五十九年「弘法大師御入定千百五十年記念」に出版した『四国遍路・道しるべー付、茂兵衛日記』で発表させてもらったのだが、当時の先駆的遍路研究者達は、刻字よりもまずは標石の所在を確認するのに精一杯であった。愛大名誉教授故村上節太郎氏などが早くから遍路標石を追求していたのだが、標石刻字の解読は「不充分であった」のである。

 そこに小生らの関与する余地があったのである。のみならず持て余した日々を四国路に投入して駆けずり回ったのは、今となっては楽しい追憶の時代である。併行して古文書学習に拍車がかかり、稚拙ながらも採択に手を染めたものである。


 是より 施主長尾西村〇〇十蔵

(大師像)二里半 寛政六寅年

大窪寺迄願主豫州越智郡朝倉上村徳右衛門


 昭和五十九年の時には〇〇が読み取れなかったのだが、現在ではこれは「清水」と確認されているのである。そしてそこから半里ほど山道を進む(さぬき市長尾町下中津バス停南入)と、地石に「是より於くぼ迄二里」があり施主の「井戸村成瀬兵太」について、「おへんろ交流サロン」の木村館長の話ではこの成瀬氏は小説家・菊池寛と何か所縁のある人物との話である。この標石の拓影写真は前掲拙著に紹介済み(32P)。これによって二百年前のへんろ道筋が前山ダムの西側の山中を通っていることが知られるのである。



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