徳右衛門丁石の話

 その39−2


【武田徳右衛門の里丁石】〜『小松史談』 126号、平成十二年一月十五日発行〜


 ○願主のこと

 三基の共通項はその石造物としての形態にもあるが、何よりも刻字〈願主 徳右衛門〉が第一に注目される。こうした道標石を建立しようと発願した人が徳右衛門という名前の人なのである。何時何処の村にも居たような人名であるが、この標石の場合、事例その二に出てくる越智郡朝倉上村が、徳右衛門さんの住所である。今の朝倉村である。江戸時代には天領であった。


 ○朝倉村の武田氏

 龍門城は大永年間(一五二〇〜二三)は河野通明源六の居城であったが、その後武田信勝公が入城。天正十年十二月小早川隆景の攻撃を受けて落城。第三子信吉(富若丸、後真三郎と改名)が水ノ上京上(みずのかみきょうがみ)に居住。江戸時代に福島正則の所領となって大庄屋役を務めている。いずれにしろ甲斐武田氏信元公の末裔で、安芸銀山城にいた武田氏元綱公の流れを汲んでいる。

 しかし武田氏の動向については、諸説紛々で真偽を分かち難い事績が多い。そんな中でも水ノ上京上居住の徳右衛門の業績『遍路道標石設置』は紛れもない四国遍路界(大師信仰の多くの遍路人たち)に捧げられた一大事業であった。

 武田氏一族の動向はともかく、遍路界に捧げられたこの善根功徳の様相を垣間見ようとするものである。

※注:伊予武田氏は安芸武田氏の系統で、甲斐の信玄公とはその九代前の別れになるようだ。



〜『日本史年表・地図』児玉幸多編、吉川弘文館より〜
アカ丸で囲っているのが信玄公。その下の行に安芸武田氏の系譜。



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