徳右衛門丁石の話

 その38−8


【武田徳右衛門の業績について】


 七 石工などのこと

 寛政六年から始めたわけであるが、当初の動きははっきりと確認できない。今のところ、十一年迄のうち旅の記録は八年の十二日分しか年月日が分かっていない。八十八番大窪寺あたりまで出掛けて、それから先の記述がない。次に、寛政十二年(一八〇〇)正月から二月中三月五日までと、同二十一日から四月中閏四月二日まで、さらにこの年には六月から七月にかけてと、八月に一週間阿波の佐野村(六十六番雲辺寺麓)へ出向いている。その内六月の記録を少し紹介する。


〔寛政十二年(一八〇〇)〕

六月五日

一阿州国町石弐拾七本、予州国今治町石屋太助ニテ拵え、

寛政十二年申六月五日ニテ今治浜出船、

八日北浦善次船運賃銀百目ニテ積渡申候

同十日夜迄船、十一日・十二日阿州徳島福嶋屋泊り、

十三日富岡町与州屋儀左ェ門方泊り、十四日泊り、

ゆき浦山本屋五兵衛…


 原簿では阿波四十八本。その半数を超える二十七本を一気に運んでいる。細工は今治町の〈石屋太助〉である。船は北浦(伯方島)善次の持ち船。阿波徳島迄の運賃が銀百目。金二両弱。金一両は銀五十〜六十目相当。

 船中三日泊りで徳島に着いている。標石二十七本はここで降ろして各地に運んだのであろうか。この運び賃も必要であった。港に近い町場と山中の札所道では随分と手間が違う。一々の場合ほとんどの内容が不明であるのだが、稀に記録が残っている。

 久万の四十五番岩屋寺の町石の場合、細工は〈石屋甚蔵〉(上直シ村?)であったが、代銀三十五匁。外に「かき賃」が五匁。合わせて四十匁であった。

 今治の石工は、当然に近くの島から産出した花崗岩を使ったであろうが、地域ががかわれば違った岩石を使用している場合もある。

 阿波の山中でも花崗岩性のものも多く見かけたが、砂岩性の標石も多々ある。鳴門の撫養石であるが、これが前述照蓮の四国中千躰大師標石に専ら用いられている。徳右衛門としては今治の石工を優先的に使ったのであるが、地域によってはその土地の石工の手助けを必要としたことであろう。

 ちなみに伊予国内の徒右衛門標石のうち、六十五番三角寺の石が阿波の撫養石である。このことについては拙稿「照蓮を探せ」(『四国中千躰大師』福井宣夫、一九九七所収)で発表。そしてその施主が、〈阿州徳島大師講中〉。この連中は、徳右衛門が一応成就した文化四年を過ぎて―まるでバトンタッチしたかのように―同六年より始まった照蓮の千躰大師標石設置の主体であった。

 はっきり読み取れないのであるが、「黒崎 石屋善兵衛」の名前がある。これが阿波徳島の石工なのである。その他今治城下の石工としては、〈石屋代助〉。浮穴郡東方村〈石屋与右ェ門。大洲領城下石屋などもある。

 今治で細工して各地に運ぶ場合と、そうでなく各地の石工に依頼した標石も少なからずあったようである。


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