徳右衛門丁石の話

 その38-2


【武田徳右衛門の業績について】


 二 墓誌銘

 越智郡朝倉村水ノ上に一族の墓がある。屋根付きの石碑であるが、上部に弘法大師尊像を彫りだしてある。ほとんどの徳右衛門の道標石がそうであるように、大師座像である。戒名《観月道清居士》、文化十一戌十二月十九日に亡くなっている。


此信心ノ翁、自寛政六寅歳企四国丁石、干時高祖大師ノ得深情

唯自求幾千ノ施主、正ニ文化四丁卯年


 寛政六年(一七九四)に道標石の建立設置の願を起している。標石のことを「丁石」と言っているが、厳密には〈里程石〉と称す方が妥当と思われるものである。高祖大師は弘法大師のこと。「得深情」は御陰を蒙りといった意味合いであろうか。「施主」とは、設置事業の費用を出す人。とくに標石そのものの代金を出資する人を指す場合が多い。山道などへかき揚げる労力奉仕をする人なども施主である。

 文化四年(一八〇七)に満願、一応の完成である。十三年間を要している。そして文化九年には伊予国分寺・四国五十九番札所に弘法大師石像を建立している。自身開設の二十一ヶ所巡りの記念の気持ちも籠めていたであろうが、台石刻字は次の通り「道丁石」設置事業の供養の為であった。


25番津寺門前の徳右衛門丁石

 墓誌銘では一応文化四年の完成であるが、その後も同九年まで四国路に赴いている。ただし、二十一ヶ所開創の年、ー文化七年ーには旅に出ていないようである。しかし、五・六・八・九の四年間は設置標石の確認や事後処理の為であろうか、毎年のように遍路旅に出ている。

 時期としては、三月前後のことである。九年には六・七月前後を含めて、九十日余りも家を留守にしている。大変な時日を注ぎ込んでいたわけである。

 南予、四十一番札所龍光寺には徳右衛門勧進の山号石があり、その記年銘刻字は「文化五辰七月吉日」とある。また次の札所・仏木寺まで二十五丁のしるべ石でもある。徳右衛門設置の標石は、ほとんどが里程石である。ここのように札所間の距離が短い所では、確かに丁石もあったわけである。

 文化五年には、三・四月の二ヶ月間をかけて、讃岐・阿波・土佐・伊予と回っている。その際に龍光寺の標石の相談をしたのであろう。時の住職・桓応上人の名前も彫り付けてある。施主(刻字には施財とある)は、井上氏の妻とあり、女性であった。

 もう一本、文化九年のものが土佐路に立っている。この年に二度目の旅を五月末から八月上旬にかけてしている。その際に相談したものと思われる。


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