徳右衛門丁石の話

 その32


 前回は三角寺へ六里石の施主飯尾氏が庄屋であった萩生村の文書を紹介してみたものである。豫州小松藩萩生村には徳右衛門町石は七里石がある。元来は黒岩川左岸に立っていたのであるが、現在は少し西側になる南の坊萩生寺境内に移転。やはり飯尾氏が施主となっている。

 小松藩は小藩であったが、飯尾氏は有力な財産家であった。我が村中に限らず隣藩西条藩の分まで寄進しているのである。



六里石の元の位置

 さて六里石であるが雑な手書き地図であるが、図中々辺の交差点に立っていたものである。近世のこんぴら(讃岐)街道は、明治時代に新道が開かれた道筋に包含されている場合がおおいのであるが、図中黒字線の部分は取り残されてしまっている。その川端近くに地蔵尊があり、その前に歩哨のごとく六里石が立っている(前回写真参照)。その左下の星印は水車が回っていた場所である。文化時代の辺路日記に記事が出ているのである。

国領川とて金山水出川、水赤し。其川、車米つきよる…

とある。金山は別子銅山のことで、「水赤し」とは鉱毒水のことであろうか。寛政十二年の『四国遍礼名所図会』では、

銅山川、この辺川上に銅を掘出す山あり、川水鶏卵をときし如なり。

とあった。その国領川(銅山川)左岸に六里石は立っている。

 小生、昭和四十九年の徒歩遍路時にはここ旧道の橋は崩落していた。そこで飯合一杯の飯を食したものである。


 承応二年(1653)、澄禅はカット地図の上辺から北側へ十丁ばかり下がって真言寺「浦ノ堂寺」=現「隆徳寺」へ宿泊している。 - H20.12.10



六里石の下半分七里石、施主は同じく飯尾氏



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