徳右衛門丁石の話

 その29


 先日土佐の香美市で岡村庄造氏の拓本展を見に行き大いに目を楽しませて貰った。仏像が専門の青木淳氏とも久しぶりのことであった。堪慶派の作仏が土佐に伝わっていたとかのことであったが…。

 さて今回は本連載稿16に関連した話。二番札所極楽寺境内に据えてある石であるが、小生の読みと違う活字化がされているのがみつかったのである。今ではまだしも、小生らがおらなくなって後に、事の事実、真実があやふやとしたことになるではないか。

 前述の岡村氏に先行する土佐の拓擦り家として、戸梶修蔵氏や井上拓歩氏がいる。その井上氏の『石摺遍路ー四国霊場・拓の旅』昭和62年高知新聞社発行である。その17頁であるがどうも同じ石をさしているようなのだが、説明文中の内容が小生と大いに異なるのである。


「境内に二基ほどへんろ石があった。どこかの路傍から移したものだろう。

そのうち一基を拓す。


 是より三ばんへ

 二十五丁 里浦四国講

右 発起人 現住長峯

 世話人檜

* 西村講中 (*は竹カンムリに瀬)


漱口石の建立と、年代も世話人も同じであった。」


 漱口石というのは手洗い石のようなものでここ二番のは「灑盥」の立派な刻字である。こちらの世話人が西村講中である。「文化五戊辰三月吉日」とあるのである。

 女性の化粧のように怪しげな影を隠すのでなければ拓影というのは素晴らしいのであるが、説明文の不備誤謬は問題である。大いに気を付けねばならないと自戒しつつ再考に及んだ次第である。 - H20.10.24



【石摺遍路】より



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