徳右衛門丁石の話

 その2


 1では近在の願主徳右衛門の標石を見たわけである。いま少し続けて見て行きたいのであるが、刻字の用語問題について考えておかねばならない。「丁石」である。これは一丁(=109m)を単位として距離を測る石を指す。小生は高校生の時だったか、宮島の弥山に登る時にこうした丁石が据えてあることを意識したように思う。段々と数値が小さくなってゆくのに励まされて登山したものである。登山と言うほどの山でもないが、信仰的側面が強くてこうした丁石が設けられているのである。中腹だったか「賽の河原」があって石積みをしたりしたこともあった。

 実際には徳右衛門の場合「丁よりも里」数を刻んで標示したものが多い。しかし道標石設置を発願した当初の用語が「町石」だったので今に丁石の用語がよく使われるのである。「里石」という言葉が普及していなかったことにもよる。両者を合体させた「里丁石」や、あるいは「里程石」と言う表現もある。まあこれらの用語の感覚を含めて「丁石」と言っているのである。人々の生活が里数よりも丁数的距離感覚で構成されているからとも考えられる。こうした距離の違いには、日常生活と旅との心情の違いにも反映しているとも言える。


 何故?徳右衛門は道標石建立を発願したのであろうか。《亡き子の菩提を弔うために》~『四国遍路のあゆみ』愛媛県生涯学習センター発行、平成十三年~という表現が正鵠を得ていると言えよう。しかし本人の詠嘆は記録されて残っていない。内心の悲しみと辺路界へ投入した情熱とは天秤に懸けて語るほど安易な人生ではないのである。小生において心情の重さが理解不可能と言うことだけかも知れない。中務茂兵衛の遍路生涯にしても、仏海上人の土中入定にしても、到底近寄り難たい各々の宿命的軌跡であった。

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