徳右衛門丁石の話

 その16


 はたしてこれは?徳右衛門のものではなかろうか?!確か二番極楽寺境内に今も立っている。

 刻字については略図カットを参照。「文化四年丁卯二月」に注目。この年は「正ニ文化四丁卯年、満諸願也」と徳右衛門夫婦の墓碑銘にあった年である。残念なことに一番霊山寺には徳右衛門丁石は見当たらないのだが、この二番境内にある石が阿波での一番札所に一番近い石になる。それゆえか向かって左側面には「・れより一ばん江十丁」の刻字がある。これは伊予から順にまわり八十八番を経て、おそらくは大坂越え道で三番に出てから一番に向かうことを予想させるものではなかろうか。当然十番切幡寺に出て一番に向かう逆道の場合も考えられることではある。とにかく一番に最も近い所に設置された(現認された)ものが「文化四年」に建立されているのである。

 このことと、寛政六年に建て始められたものが八十八番近くにあることからして、徳右衛門の道丁石設置の構想を伺うことが出来る。

 さて、肝心の刻字は現在では読み取れ無い。せいぜい「い・」ぐらいまで。「いよ徳右衛門」が自然劣化(風化損亡)しているのである。酸性雨の影響であろうか?この石材は撫養石であろうか。砂岩質の赤みを帯びたものである。以前に少し言及したことと思うが、徳島大師講中を背景に活躍した照蓮は、撫養石を使った「千躰大師」標石を設置していったのであり、一方伊予の徳右衛門は今治辺の大島石(花崗岩)を主に使っている。とは言え、三角寺にある丁石のように撫養石を使った場合もあるのである(ここの場合施主は徳島大師講中)。



読み取りの刻字


平成19年11月撮影


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