徳右衛門丁石の話

 その13-2


 《出羽国荘内糸屋惣七 為高沢覚鯨》

 これは真念法師の『四国偏禮功徳記・下』の末尾、刊行助縁緇素名簿中にある名前です。またこの本には27つにわけて話がありますが、国別の話24のうち17が四国についての話。他には紀伊が3、備後・江戸・泉州が各々一つ。そして奥州会津の庄が一つあります。

 国別の遍路者の人数に対応していると言えるかどうかはともかく、奥州における弘法大師(四国辺にてあそぶ僧)のおかげ話が挿入してあるのは一考の価値があります。

 真念さんは元禄期まで活躍された人ですが、これから七十数年後(明和期)、出羽国の人によって建てられた標石があります。86番志度寺より87番長尾寺への道筋。長尾寺北数百メートルの住吉という所にあります。


 是より六丁寺御札所

ユ南無大師遍照金剛

 出羽国秋田清水九兵衛建

 明和三丙戌年九月吉長・


 御宝号の上にユの梵字があります。これは真念さんの標石には見られませんでした。真念さんの標石にはア字が上にありました。ア字とユ字の相違は何故でしょう。

 この明和期よりももう少し後の寛政・享和・文化期に活躍された予州の武田徳右衛門さんの標石はほとんどア字にお大師さんの像が刻されていますが、ユの字だけの標石も少しありました。

 これは、四国遍路史上の《弘法大師一尊化》の信仰にかかわりがあります。


 ○白藤大師堂

 抑白藤大師庵ハ昔明和年間出羽人覚心和尚ノ開基ニシテ

 正道、霊道等ノ高僧ガ法灯ヲ相承漸ニ四方ヲ明ラメ皈依

 厚ク堂塔ノ結構ハ壮麗ヲ極メ、依数世隆替相累還往時偉

 観止マズ降ッテ、明治甲申年第十一師団、陸軍演習場ト

 シテ買収サレ、此ノ地ニ移転ス 云爾

 維時大正六年五月

 第十五代庵住樋上光澄代


 境内の石碑は大体右の通りです。
 明和年間といえば二百二十年も前のことです。
 場所は雲辺寺から小松尾寺までの道筋にありますが碑文の通り現在地へ移転されました。

 本誌217号に掲載されている『海南四州紀行』には、

 是ヨリ下坂 ザレ峻シ 三十二丁目ニ茶堂アリ 二間ニ三四間

 前ニ客舎アリ 凡二間ニ五六間

 とあります。また『四国遍路名所図会』(伊予史談会双書3)によれば、

庵 山の中にあり、行暮の節ハ宿をかす、甚だ美麗なり。

とあり、立派な庵であったことがわかります。

 現在の建物にも往時のおもかげがあります。



湯茶をわかしおヘンロさんに接待した白藤大師堂のカンス


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