徳右衛門丁石の話

 その11


 本稿6-2挿図の石は正面に「是より奥院迄五十八丁」とありましたが、側面の施主が「阿州徳嶋大師講中」の人で「坂東姓」の二人、「祐貞」と「蓮貞」でした。そして二十二番平等寺の「これより薬王寺迄五里」(本稿その8カット参照)の施主も「大師講中 坂東氏蓮・」となっているのです。どうやら徳嶋佐古町にいた人物ですが、これ以上のことは分かっていません。

 やはり推測の域をでないものですが、真念再建願主「照蓮」とこの坂東姓「蓮・」の字が関連しているのではないかと思われるのです。そしてへんろ道の改変が起こり、真念時代より約百年後の武田徳右衛門の活躍した時代には一寸した問題が起こったようです。それが平等寺の立石から理解することができるのです。

 文化二年(1805)、土佐の兼太郎という人の『四國中道筋日記』に次のような興味ある記事があります。平等寺でのこと、


「此所より道しるべ七り、御堂下の立石ニハ五りと有」


 この文中の「道しるべ」というのは案内記の『道指南』もしくはその増補大成本のことであり、「立石」は徳右衛門の立てたものをいっているのです。案内記の記述より二里も距離が短くなっているのです。真念のじだいには由岐・木岐などの海岸周りで二十三番日和佐の薬王寺に進んでいたものが、百年後の徳右衛門の頃になると星越経由の山道が開かれたようです。それゆえ二里もの距離短縮となったのでしょう。ところが「真念再建」を標榜する照蓮は新道を無視して、海岸回りの道筋に「千躰大師」標石を設置しています。いずれも文化六年に、由岐・木岐・恵比須浜に徳嶋講中の施主で千躰大師標石を立てているのです。

 あきらかにここ(22→23)では遍路道筋に関して徳右衛門と照蓮の見解が違っているのです。文化二年に遍路した土佐の兼太郎の日記によって、既に徳右衛門の立石があったことが分かるのです。


参考:『四国中千躰大師―照蓮を探せ―』福井宣夫、平成九年1997
『四国辺路研究』第11号


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