徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 七 「年に三回の遍路」説について−2


 つぎにJ『仏教民俗学体系』2名著出版一九八六に「四国遍路の聖 中務茂兵衛」で森正康が武田徳右衛門について言及している。イアン・リーダー氏はこれを引用したのであろう。

毎年三回の四国遍路を行うこととなった。そして寛政六年、大師像を刻した標石建立を発願し、自身も喜捨するとともに願主となって勧進活動につとめ、文化四年(一八〇七)に一応の満願成就を迎えている。(9)


とある。なお(9)は、竜田宥雄「府中二十一ヶ所霊場由来記」(『今治史談』)昭和四十五年、とある。
 こうして見てくるとAでの表現がずっとこれまで影響して「年に三回の四国 遍路」となっているようである。
 なお最近では梅村武の研究がある(『四国遍路のあゆみ』平成十三年、愛媛県生涯学習センター発行。二百四十三頁を参照されたし)。重複するが、梅村武の四国遍路シリーズ『武田徳右衛門丁石』(初版平成一〇年)、増刷平成一六年では、

この(*喜代吉注、寛政四年を指している)後の徳右衛門は毎年三回、遍路の旅に出たという。現代の自動車遍路とは違い、その時代の年三回というのは大変なことである。延半年は遍路に必要であったろうし、とすると、家に居られるのは農繁期だけのようなものとなる。家族・親族などの協力なくしては不可能なことで、それだけに決意の程もうかがえる。
 こうして彼の四国遍路は続けられた。道路事情のよくない当時のこと、見知らぬ土地での徒歩遍路は想像に絶する困難なものであったようである。時には道に迷い、大切な時間を無駄にすることも多かったであろう。道筋にもっと道しるべがあったら、との思いは彼の心に次第に強くなっていったに違いない。そして寛政六年(一七九四)四月、遂に丁石建立を決意した。
この大事業は彼の私財だけでは不可能なことで、十方信者に寄進を願わねばならず、そのため、一國あたり約三年、全部で十三年という長い歳月をかけている。そして文化四年、これを完成した。…


とある。梅村氏は寄進原簿には目を通しておられないようであるが、それまでの各々の記述をよく総合されてまとめられているようだ。
 これらのほかに略年表では、「寛政四年(一七九二) 同年より四国遍路に出る」とある。つまり五女おいしの死亡によって徳右衛門が遍路旅を始めたということを言っているのである。Gで「五年の歳月をかけ三回の巡拝」というのは、寛政四年からとすれば寛政八年までとなり、寄進原簿の内容と整合しないことになる。
 些細なことであるが徳右衛門の遍路旅「年に三回」説が曖昧な確固とした根拠がないことを指摘したものである。
 参考までに六で紹介した「四国中巡回記録」、つまり徳右衛門が丁石設置に四国中を懸けずり回った記録を一覧表としてみた。これは四国遍路ということではなく、丁石設置事業の為に、徳右衛門が四国中を懸けずり回った日々の記録なのである。

四国中巡回記録 一覧



 終りに

 本稿では、何よりもまず徳右衛門設置の丁石のあらまし、次いで「年に三回遍路説」についてのべたものである。さいわい子孫の武田徳夫氏の計らいで貴重な『寄進原簿』に目を通すことも出来、道標石設置事業解明の手がかりがつかめたのである。
 これまでに徳右衛門の業績については梅村氏がよく従事しておられたようであるが、丁石確認は、「阿波一一・土佐一三・伊予六一・讃岐一〇」の合計九五基で終えられたようである(四国遍路シリーズ 武田徳右衛門丁石)。小生は二で発表している如く、現認数は百二十九基である。しかし今回は個々の丁石の秘めた物語については十分に言及することが出来なかった。しかし長年にわたり四国遍路世界で起こっていたことの重要な一面を提出出来たものと自負しているのである。
 観月道清居士こと冥府の徳右衛門氏もお大師様と共に、多少は口元をほころばせておられるのでは無かろうか。 
 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛



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