徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 四 現認記録−9


 C〔讃岐国十四基〕

 11、長尾町玉泉院。これは明治二十八年に中務茂兵衛及び信者某らが施主となって改刻したものである。徳右衛門らの刻字は見当たらない。正面大師像の下の彫り込みや、茂兵衛の順拝度数がないこと。そして何よりも次12の石と作り(石材・仕様形状など)が同じものであり、徳右衛門丁石の改刻と断定するものである。

 12、長尾町前山字大石。11の石と石材・仕様もおなじものである。幸いに正面刻字が読める。

是より施主長尾西村 清水十蔵
(大師像)二里半 寛政六寅年
大窪寺迄 願主豫州越智郡朝倉上村徳右衛門

 ここで問題となるのは、何故、寛政六年の町石勧進代舌のモデル図と違うかと云うことである。上部梵字が無く四角錐状に尖っている。11と共に明らかに梵字は考慮していないようだ。施主願主名も側面にせずに正面に収めている。徳右衛門のものと確定できないが、八栗寺の町石も同様正面にのみ刻字している。これはモデル仕様に忠実な今治の石工の仕事では無いということではなかろうか。
 まったくの反対ということでは無いにしても、各地にいた石工たちの抵抗めいたことがあったのかも知れない。7道隆寺の場合、坂本氏のように強く自己主張をする賛同者もいたのである。
 大窪寺での町石が確認できないのであるが、11・12の存在は徳右衛門は町石設置に際して、東讃地方の大窪寺道から始めたのではないかと推測される。

 13、長尾町下中津バス停南入る。これは地石を利用したもので「是より於くほ迄二里」。原簿記録には次の如し。

一 壱本是ハ大窪5弐里前花折道長尾西□水重蔵

 ここの重蔵は12の十蔵と同一人のようである。原簿記載と実態の町石設置状況とに変更があったのが分かる。

地石標石の拓影
地石標石の拓影

 14、これは道路工事で彫りあげられて願主徳右衛門のものと分かった。寺石に地蔵尊を刻んであり、これまたモデル図仕様では無い。

施主 當村 松左衛門
左 へんろ 長尾西塚原伴蔵
(地蔵尊)みち
右 あハ
与州 願主 徳右衛門

道端に長い間埋もれていたので願主徳右衛門のものとは分からなかった。形状もモデル仕様と大いに異なっている。原簿寄進記録とは一致しない。

志度さかい屋其外
一 弐本是ハ大窪寺と前と源五郎
 内壱本宮西村 忠次郎 重五郎
茂右衛門
大窪寺5切はた 四り
〆 讃州相済


 以上で現認百二十九基の様子について述べてみた。寄進原簿記載と合致しない場合もあって、どのように多数の町石が四国中に配置されていったのかについては、まだまだ解明に程遠い。



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