徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 四 現認記録−7


 C〔讃岐国十四基〕

 7、道隆寺北口。これは四面刻彫となっており、寛政六年とある。

寛政六年、四面刻彫
寛政六年、四面刻彫

「寛政六甲寅歳季冬日
「是より右宇多津發願者与州□□□□
 道場寺迄一里半勧誘者坂本伊右衛門
「四國第
 七十七番道 隆 寺
本 尊 薬 師 如 来

 ※印のところは窓枠風にして何か仏像(弘法大師かそのほかの仏像か不明)が彫ってあったようである。
 この刻字からは道標石建立の発端は予州の徳右衛門であるが、金銭などの世話(勧誘)は坂本がしたのだと、強く主張(表明)しているように見える。寄付原簿記録には、

 一 壱本 道龍寺多度郡堀江村 伊右衛門

とあるのみである。この坂本氏は道隆寺門前にも寺号石を寄進建立しており有力な大旦那と考えられる。いずれにしろ徳右衛門の善事(道標石建立)に刺激されたものか、もともと寺院護持の意識が強かったものか、このような多くの人々の賛同によって町石は立て続けられていったものである。

 8、七十八番郷照寺口。御詠歌にも歌われているように、通称道場寺であるが、施主が珍しく四国外で兵庫の人(べにや)である。どんな事情が起こったものか、原簿記録には「多度津村 勘兵衛」改めとある。また「べにや」が何者なのかも気にかかる。他にも四国外の施主がいたが、ほとんどが四国在地の人々が施主として徳右衛門に賛同しているのである。



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