徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 二 丁石の現認数
 *「ア△」は梵字と大師座像の彫刻である。


 〇讃岐国 〔十四〕

1 阿波国佐野
2 六十六番雲辺寺
3 白藤大師堂旧跡
4 六十七番観音寺
5 下勝間六ツ松
 

ア△是より雲邊寺迄一里
ア△是より小松尾寺迄二里半
ア△是より小松尾寺へ一里
△これ5本山寺一里
アS△是より弥谷寺迄壱里十八丁
 

・・・
・・・
与州越智郡・・・
与州越智郡長沢村兵右エ門
寛政八辰 施主下勝間村
 

6 七十番弥谷寺口
7 七十七番道隆寺
 
8 七十八番郷照寺
9 八十四番屋島寺
 
? 八十五番八栗寺
10 八十六番志度寺
 

従是曼荼羅寺迄廿五丁*
是より右宇多津道場寺迄一里半
四國第七十七番道隆寺
是より天の社一里半
ア△是より八栗寺迄一里
右八くり道・下り坂八丁
自是志度五十丁
ア△是より長尾寺へ一里半
 

當国三野郡松崎村白井歓治
寛政六 勧誘者坂本伊右衛門
本尊薬師如来
摂州兵庫東出町遍にや小平
取次西片元村講中
 
寛政十二・ 當村中
享和元年 當所薦田桃四郎昌教
 

11 玉泉院
12 前山字大石
13 中津バス停南入
14
 

△ひだり長尾寺
△是より大窪寺迄二里半
△是より於くほ迄二里
▲左へんろ右あハみち
 

(中務茂兵衛、明治二十八年)
寛政六寅年 長尾西村清水十蔵
井戸村成瀬兵太
當村松左エ門、長尾西塚原伴蔵
 


 以上が四国中で現認した武田徳右衛門が願主となって立てた丁石(道標石)である。

阿波 二十土佐 二十八
伊予 六十七讃岐 十四

 合計百二十九基となる。実際にはこの倍数より多くの標石を設置したようである。約二百年前のことであるが何故にこれほどの事業―遍路道標石設置の事業―を徳右衛門は為したのであろうか。
 四国遍路界における道標石設置史については多くの人々、中には無名の村人達によるものも少なからずある。遍路隆盛の元禄時代に先駆けて、真念法師らによるものもあったのであるが、本稿では伊予の武田徳右衛門の事績について考えてみるものである。
 前掲墓誌銘では「四国丁石」(の設置)を企てたとある。この「丁石」とはどんなものであったか。次に紹介する如く、一応はマニュアル的なものもあったが、個々の石を観て行くと建立に際しては様々な事情があったようである。



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