茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年6月11日 第219号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その9−1>


 以上28基に添句歌してあります。このうちの一基は現在不明(217号に報告)です。
 そして土佐種間寺近くの一基を目にしていないだけで、残り26基は全部現地にゆき調査しました。
 なかには五、六度足を運んだ標石もあります。ゆく度に何か新しい発見がありました。
 お百度参りということがありますが、確かに足を運ぶということは大切な事と思います。
 28基中五基が歌で、残り23基が句を添えたものです。同一句を何基にも添えておられますので、句種別には15基ということになります。

 旅うれし ただ一筋に 法の道

 この句は余程茂兵衛さんのお気に入りの句のようです。
 明治29年雲辺寺境内のを初出として、明治33年、大正3年、大正4年、5年の計五本あります。

 もう一つお気に入りの句があります。

 まよふ身を 教へて通す 法の道

 やはり法の道をよんだものです。明治44年に二基。それに大正元年、4年と7年。都合五基になります。
 この句のある伊予北条市の石には、句の下に「観」の字が一字だけあります。あるいはこの句の作者名かも知れませんが、ちょっと問題の残るところです。

 茂兵衛さん以外の作としては、陶庵さんの三基(歌一、句ニ)をはじめとして冷善さん、吉備の津太嶋(俳号?)さんの名があります。


 ○

 さすがお四国を何度も巡拝された茂兵衛さんゆかりの句で、《法の道》の語がよく使われています。
 この法の道こそ、茂兵衛さんの生涯を捧げられた道です。半数の十四基に、この「法の道」の語句があります。
 それ程、茂兵衛さんの生涯にとって「法の道」がすべてであったのでしょう。


 ○

 標石中の文字の読解のむづかしさについて少しのべてみましょう。


鶴多ちしの標石

 カットの字をみて下さい。一番上の字だけについて、この字が「つる」の漢字なのか「もや」の漢字なのかが問題なのです。
 小生は一応「つる」の字と確信しているのですが、善通寺市の新名氏も拓本をとっておられ「もや」と読んでおられます(坂出市の細谷晃長氏が、川柳誌「案山子」七月号で述べておられます)。
 靄と鶴は、くずし字になれば同様の形になる場合があるからです。
 しかしこの場合アメカンムリのようにみえる、鶴の字の左辺の下が、クルッとまわっているのは、どうみてもゴンベン(言)ではなくてフルトリ(隹)のように思われます。
 最終的には、句作者の津太嶋さんに聞いてみなければ断定できませんがいかがなものでしょう。
 土佐の延光寺近くの添句のごとく「旅もれし」と、明確に誤字(?)を刻んである場合もあるからです。
 あきらかにここの場合は「旅うれし」と考えられるのです。

 右二例は、刻字がハッキリと読める例ですが、既に剥落して失われた字もあります。
 なかには標石自体が紛失しているのもあります。紛失たとへ剥落していなくても、刻みが薄れていたりして、一個の標石に何時間もつき合っておれるものではありません。
 今にしておもえば、こうした添句標石という特殊な世界にはまり込んだのも、やはり「不可視」の何者かが導いたものとしか言い様がありません。

 なおまだ何基かは、お四国の地に眠っておるやも知れません。
 もし御存知の方がおられましたら御教示ねがえれば幸いです。


世田薬師前・法の道標石

 追記・今までは百度目から添句歌標石が始ったと思っていましたが、このたび八十八度目の標石で歌を添えたものが見つかりました。

 まよふ身 (をし江てとふ寿) 立石の のよか 極楽のみち

 大体右のごとく読めました。また後日詳しく紹介させてもらおうと思います。



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