茂兵衛の添句標石
〜同行新聞 昭和59年5月1日 第215号より〜


 茂兵衛の添句標石 <その5−2>


 ◎釈陶庵俊回

 次の歌は『松山市太山町52番札所太山寺一の門入口の横』にあります。
 この歌は、残念ながらよく読めない字があります。一応次のように読んでみました。

 あぶなかし 今世に迷ふ 人々を 蓮なる石に 道しるべけり 釈 陶庵俊

 どうも傍点を施した部分が曖昧としています。意味合いも一寸不安定です。
(※現在は
 あハかし 今世に迷ふ 人々を たす具流くる石に 道しるべけり と解読されています)


 しかし、ここでおもしろい事に『道しるべけり』という用語があります。
 普通は『道しるべ』という名詞ですが、ここでは動詞として使用して「道しるべをした」といった表現になっています。
 中々にめずらしい表現と思います。
 歌の末尾「釈 陶庵俊」というのは作者を示しているのでしょう。実は、これは『回』の字が剥落しているのです。

 この陶庵俊という人は、茂兵衛さんと随分御縁の深かった人のようです。
 明治二十一年百度目の標石の三基にこの人の名が、句歌と共にあります。

 吹風も 清し蓮乃 花の寺  臼杵陶庵

 これは『北宇和郡三間町則、42番札所仏木寺山門前』にあります。
 この標石は、茂兵衛さん自身が『施主』となっておられます。
 そして先程の「釈陶庵」さんが「臼杵」の陶庵さんになっていますが、これは同一人物に間違いないでしょう。

 法の花 咲く道々の 匂ひり 臼杵○○

 これは先程の二基が伊予にあるのと違って、讃岐の本山寺の近くにあります。
 へんろ道と琴平道との分岐点にあたります。
 この標石は、生憎と「臼杵」しか読めませんが、陶庵さんに間違いないでしょう。

 施主名も、先程の太山寺の門横の添加標石と同一人(こつ金作)となっています。
 この忽那氏が讃岐の人(三野郡高野)なので、近くの当処にも建立されたものでしょう。
 調査した当日、標石のある角のお宅の奥さんも、まさかここらにこのような綺麗な句があるとはご存じなかった様で、朝からの頭痛も少しやわらいだ様だと喜んでおられました。

 法の花の香りが漂っているのが、法の道です。

 花の香や いと奥婦可支ふかき のりの道 ○○

 これは76番札所、金倉寺の境内にあります。
 同じ百度目でも「明治廿一年十一月吉良日」の日付けとなっています。他の標石は五月です。
 この句の下には俳号らしき字が残っているのですが残念ながら解読できません。

 以上が百度目為供養の添句歌標石(七基)です。
 今一基位、伊予の山中に眠っているかも知れません。

 次に釈陶庵さんと茂兵衛さんの交流を示す資料を提示します。


 寶印ほういん簿小言

 義教氏、山口縣下大島郡鯨野村の人也。予嘗て聞く氏幼より仏教を信じ常に仏道修行の志ありけるが、去る慶応元年二月より始めてまま處霊場の巡拝を試みしがつつがなく一回終りたれば、信仰の余り二回三回と重ねぬれば弥よ弥よ霊験の新たなること辨別し、尓来じらい続事、拝礼やめざりしが光陰矢の如く、既に明治廿三年二月に至りて年月を屈指すれば、あたかも廿六年間を費したり。其功労はまさに壱百十一度となれり。日頃余、其寶印簿を拝するに、紙上の墨跡は変じて全く赤紙となれり。
 故に同氏は、已前いぜんの寶印簿は多年の功労を費した平生の素意を達したれば、いささか祝意を表するが為め、我先祖の霊前に供し霊魂を慰めんと欲す。
 因て本年本月より新に寶印簿を精選し、向後巡拝の砌りはがい本を以て押印を受る事となしぬ。
 しかれども以前の度数を続き一百十貳度与里より始むるが故に小言を余にふ。余ひそかおもふ、氏の素志豈に尋常らず、実に銘感に堪へざる也。
 そもそも善因善果悪因悪果ハ諸教の遺誡也。いはんや又、積善の家にハ必ずけいあり。不積善の家ニハ必ずおうありと古人の金言もあれば、有志の信者は深く此後を遵守して義教氏の如く善事をなし、現当二世の両縁を結び玉ハんことを希望すと爾云。

明治二十三年二月撰書
鶴洞麗水軒
貧道陶庵 釋俊回謹識


 右の宝印簿といのは、現在「納経帳」と称しているものです。

 明治二十一年一百度目の標石に、既に陶庵さんの名がみえますから、こののちも茂兵衛さんはこの人と接触があり、一百十一度目の巡拝の際に、新しく納経帳をしつらえた様です。

 さて、この陶庵さんが何処の人か分かりません。いずれ御縁をいただいて、その墓所にて香花を手向けさせてもらいたいものです。
 先程の撰文の終りには色々な号を記しておられますが、中々な風流人だった様です。
 貧道ひんどう(僧侶の使用する謙称)といい、釈(これは釈迦如来と同姓の意。家を捨てた――出家の姓として、宗派を問わず使用される。真宗などで法名にこの字を使用するのも同様の考えによります)を名告るからには、あるいは僧侶かも知れません。

 陶庵という庵号や、軒号などは、最近はめずらしくなりましたが、江戸中後期ごろの風流人(庄屋等)の戒名に使用されているのをみます。
 歌も作る、俳句もひねるということで、他にも何か書かれたものが残っていると思われます。

 吹く風も 清し蓮の 花の寺
 法の花 咲く道々の 匂ひけり


 右二句。まことにすがすがしく、美しい句です。この陶庵さん、名前は色々とにぎやかですが、心中は中々にすずやかな人だった様です。



茂兵衛の添句標石 その5−1 / 茂兵衛の添句標石 トップ / 茂兵衛の添句標石 その6−1