四国辺路界での出版事情
善通寺紀要 第17号より



 四、出版と販売事情 後半


 以上日記類など十七点、遍路関係の印刷物、出版物販売に関しての記事を抽出してみた。他にも気になる記事をみているが、とりあえずは各項を見て行こう。

 ア。持明院の手形は印刷物であったか?。海部大師堂で売っていた辺路日記の板。これはいわゆる「世間流布の日記」と同じ物であろう。
 イ。大坂を起点としての刊行販売事状。四国内では阿波・讃岐・伊予で販売。「仏像文字共」ならびに「邊路札」を取り扱っている。
 ウ。やはり大坂での刊行であるが、「品々」が増えている。また四国では土佐、そして高野山でも扱うようになった。

 以上は十七世紀後半の様子。次に十八世紀。

 エ。四国西国の「手引」とあるのは簡略なものであろうか。知人に貰っている。また薬王寺(二十三番)で求めた「やくの御守」とは、文字札か絵札かはともかく、御影札に先行する物と考えられる。
 オ。繪圖げあるが、やはり大坂での出版。へんろは上方文化圏に属するのは当然のことと言える。
 カ。これは「道指南」ではなく「霊場記」と推測されるのであるが、手にした経緯は不明。
 キ。既出の大坂での出版。
 ク。遍路道中の名所としての「由来記」の存在。
 ケ。明らかに弘法大師様の「御影絵」を求めている。自己用一枚の値としては高すぎる。おそらく近隣知人への「へんろ土産」であろう。
 コ。まず「道指南」本代金が百二十文であったことが分かる。そして大師御繪(御影)と、「所々」の繪圖を買っているのが目立つ。絵図は自身用に旅の土産として求めたようだ。へんろ人がわの需要もあり、また各地での供給もあったことが良く分かる。

 以上十八世紀。これから十九世紀ぶん。

 サ。窟禅定「手引」。これは前項コの「穴の禅定入用」と関係したことである。「辺路と薬」はまた興味深い問題である。
 シ。御影二点。番外の「臼井の水」といわゆる「十八番恩山寺隣釈迦庵」である。臼井のほうは御来迎譚によるものであり、釈迦庵の方は大師誕生譚による御影である。どちらも遍路道端、番外札所と看做される場所であったが、其存在は遍路人に対して、大師信仰についての知見を多大に与えたことには間違いない。
 ス。ここでは南予卯之町(宇野町とある)における遍路土産商売繁盛の一端を述べている。御影「仕入此所に数多夥く下直(※値)なり」とある。
 セ。略。
 ソ。出版関連記事なし。
 タ。ここではスで触れた南予「卯之町」の乕屋が登場。また他にも和霊宮の御守、御影色々代、三角寺奥院でも御守を買っている。こうした札守より外に、『真言念誦法』なる密教信仰に直接かかわる書物が施本されていることが注目される。
 チ。一八三六年(天保七年)、地理学者(探検家)の記録であるが、印刷された物として、札守・源平血戦の始末書・当寺因縁書・不浄除の守などとある。またシでふれた「釈迦庵」では、大師誕生之御影」施しに(無料?)出していたようだ。


 簡単に日記類における出版・販売状況を見てきたわけであるが、こうしたなかで、四十八番西林寺森(近所)での「表具師版」本の存在は一考に値するものである。勿論、これに先行する南予虎屋名義の出版も注目すべきことには違いない。さらなる新資料の出現を待望するものである。



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