四国辺路界での出版事情
善通寺紀要 第17号より



 一、颪部村及び虎屋について

 @の『四國禮場道中記』であるが、タテ11,5ヨコ16,5p 十五丁 「此書物出ス所 与州宇和島領 颪部村本家 虎屋喜代介板」とある。宇和島領颪部村というのは現在宇和島市津島町岩渕(旧北宇和郡)、岩松川中流域左岸辺りであるが、なにより此処には満願寺がある。
 この満願寺こそは、真念が道指南序文で次のように言っている寺なのである。

豫州宇和嶋満願寺
此満願寺八十八ケの中にあらずといへども
大師草創の梵宮にて往昔ハ大伽藍なりしが破壊年久しく
尽るになんなんとす、今出す所の霊場記道志留邊両通
の料物をあつめ彼寺九牛が一毛修理せむ事それがし
愬天の別願なり
南無大師遍照金剛真念敬白

と、強く意思表明をしている梵宮(寺)のことである。江戸時代には四十番観自在寺から次の四十一番稲荷宮(龍光寺)に向けて、道筋が三本あったのであるが、いずれも「岩ぶち満願寺ニ至ル」と案内されていたのである。颪部の北側、野井入り口には「これよりいなりへ五里」の道標石が立っている。二百年前、「願主・徳右エ門、施主・松野屋喜兵衛」とある。
 三百年前にこの颪部村=満願寺では『道指南』本が売られていたのである。このことが、今回紹介の『道中記』本の商売の発生に影響を与えていたのではなかろうか。時代が下ると共に颪部村とは違う、遍路道筋の他の村でも遍路関連の刷り物などが販売されているのである。特に南予では《虎屋》名義で行われていたのである。
 明治時代になるが、宇和島にあった佛絵一切表具所の「本家とらや」の刻字を持った中司茂兵衛標石まで残っているのである。この標石については、拙稿『お山開全』考(善通寺教学振興会紀要第六号)に紹介。。また卯之町にいた乕屋忠五郎については『四国辺路研究』第三号参照。ここでは天保四(一八三三)年讃岐の遍路が「土産御影等」を買い調えている。ほかにも土産用へんろ絵図を売っていた「本家鬼窪村とらや治右衛門」や颪部村の「虎屋喜代助板」については『四国辺路研究』第四号「いわゆる四国禮絵図について」を参照されたし。



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