装束 ~同行新聞 昭和61年1月21日 第270号~ (S61.7.2)

 遍路の装束と荷物

 「遍路の荷つつき」という言葉があります。遍路さんが宿に入るとすぐに、またしばしば荷物をいじることをいいます。
 旅である以上、我が物といえば「荷物」しかなく、また洗濯物の整理などで、どうしてもこの「荷つつき」をしなければなりません。個々の遍路さんの事情によって違いますが、二ヶ月前後の遍路旅にどのような荷物を背負ったものでしょうか。

 江戸前期に活躍された、真念さんの案内記『四国邊路道指南』の序文中に「へんろの心得」が述べてあります。貞享四年(1687)の刊行ですから、今から約三百年前のことになります。貞享五年が元禄元年に当たります。
 この『道指南(みちしるべ)』には「用意の事」として、まず「札はさみ板」を掲げています。つまり納め札を挟むものです。これは「文箱」でもよろしいと記してあります。
 大きさは「たけ六寸、はば二寸」とあります。ということは、納め札の大きさがこの位であるということになります。

 中務茂兵衛さんの『道中記大成』(この本は真念さんの出版した案内記の明治版といって良い)には、納札書様として「紙半紙六ツ切云々」とあります。実際には様々の形(大きさ)のものがあったようです。

一、負俵・めんつう・笠・杖・ござ・脚半・足半、
其外資具(もちもの)心にまかせらるべし。
惣じて足半にてつとむべしといひつたへたり。
草鞋(わらうつ)は札所ことに手水なき事有て手を汚すゆへに、
但草履(ぞうり)わらうつにてもくるしからず ― 道指南序  

 カット図を見て下さい。(本紙200号にも『道中記大成』所載のへんろ人の装束の図があります)

 さてまず負俵。図中背中にある、いわば現代のリュックサックに相当するものです。これに関して中務茂兵衛さんが『道中記大成』で次のようにいっています。

一、負(おい)ハ昔ハ荷俵なれど今ハ少(ちいさ)き形のミにて木ニて拵持なり。

 つまり茂兵衛さんの頃(明治期)には荷俵ではなく、木の枠を作り柳行李などを積んでいたようです。
 大正期の遍路・高群逸枝さんの記録『娘巡礼記』は、「行李付荷台」といっています。


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