『捨て往来』一札のこと ~同行新聞 昭和61年9月1日 第292号より~

 その1

 本紙273号”遍路死一件”のカットに使用したのには「往来手形之事」とありました。今回のは時代が少し古く(安永五年・1776年)「往来證文之事」と題してあります。
 一般には徃来手形と称していますが、時代や地方により多少のバリエイション(異型)もあったようです。

 取敢へずカットの文を読んでみましょう。一応読み易いように書き下してみました。


  〇

往来證文之事

一、此勝蔵と申す者、安芸国三好十日市之

 ものに而御座候。此度四国遍路にまかり出で申し候。

 国々御関所相違なく御通し下さるべく候。

 万一行き暮れ申し候はば宿など仰せ付けられ下さるべく候。

 尚又、何国にて病死仕つり候はば、御世話乍らその

 御所の御作法にて御葬むり下さるべく候。此方へ

 御附け届け及び申さず候。仍而捨て往来一札

 斯の如くに御座候、以上。

安芸国三好十日市、庄屋

安永五丙申年 庄助

六月廿五日

 国々御番所

御奉行衆中様

 宿々 御庄屋中様


  〇

 この手形(證文)の特徴として気付くことは、旦那寺の名がないことです。つまり「寺請け」「宗旨」の手形證文となっていないことです。
 住所の三好というのは現在広島市北方の、三次市のことでしょう。
 四国遍路に出たことは分かりますが、その理由がわかりません。他の文例では「心願」とか「宿願」の用語がよく使用してあります。
 この勝蔵さんの場合は、恐らく不治の病いゆえに四国へ旅出たものと推測されます。
 《死出の旅路》だったのでしょう。

 さてここで「旅手形」についての一文を紹介しましょう。

……だから旅手形はべつだん四国遍路にのみ見られるものではない。ところがこの手形の最後のほうに、もし万一他国で死んだとしてもその土地に埋めてもらえば国元に知らせるには及ばない、という一項のあるのをとらえて、これを「捨て往来の手形」と称する説もあるが、このくだりは旅手形のきまり文句にあたるもので、 四国地方にも四国遍路にも特有ののものでもなんでもない。したがっていわゆる「捨往来の手形」なるものがはたして存在するかどうかはきわめて疑問といわなければならない。
~旅のなかの宗教 真野俊和著、NHKブックス364 昭和55年発行~

 この引用文中の言わんとすることは、いわゆる「捨往来手形」というものが本当にあるのかどうか疑わしいということでしょう。
 実際の所、カット例のように「捨テ往来」の語のある手形は珍らしいと思います。


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