先徳の御阿礼(七)
〜同行新聞 昭和55年5月21日 第86号より〜



 〜岩上の不動〜

 前回、御阿礼(ミアレ)の問題を、天照大神の岩戸開きと、お四国へんれいにみられる《心の岩戸開き》について不充分ながら述べてみたのであるが、今回はいわゆる大日如来の教令輪身キョウリョウリンジンである《不動明王》をたずねて行こう。

 まず教令輪身とはどういうことか。これは自性輪身・正法輪身と合わせて三輪身といい、法身ビルシャナ仏(大日如来)の表現の一つである。無限身たるビルシャナ仏が我々衆生を教導する為に、ミアレしたまいし姿を、仏・菩薩・明王の三段に構えて表現したものである。

 大日如来は自性輪身で、動かざること山の如き本体で、般若菩薩が説法自在の正法輪身。そして如来の教えを実行する姿として、雄々しき不動明王の教令輪身がある。ただしこの三輪身のことは、異説もあれども、大日・阿・宝生・弥陀・不空成就の五仏(自性輪身)それぞれに応じた、正法輪身、教令輪身としての、菩薩、明王を出生するとのことだ。


○不動尊容の事

 各時代各人の変形(新案特許)の姿もたくさんにあるのだが、大よそ、火生三昧に住し、右手に剣、左手にけん索を持ち、石上に坐する像(現図曼荼羅)が多いようだ。ここで、その坐する処の、磐石に目を注いでみたい。

 前回記した《徳は岩也》といったのをひっくりかえして《岩は徳也》ということに出来ぬものであろうか。可不可はともかくとして、岩の発する徳を求めてみようとするものである。山中ばっ渉の折、或いは、四国へんろ中、路傍に現れた岩清水の清涼たるをおもい出してもよかろうか。

 重障の磐石を鎮押して動かざらしめ、以て須弥山の如き不動の菩提心を成就せんが為に、磐石の上に住するのである。この磐石の説は「動かざること山の如し」といった側面を強調しているのだが、この不動明王に限らず、他の尊像にも磐石を台座として描かれているものも少くない。これも、幾何学的に結晶化された方形の台座(瑟々と呼ばれる宝石の類をたたみ上げた台座もある)。さらには蓮華座へと抽象化されて描かれているものも多いのであるが、海水中孤独の磐石座も、なんともいえぬ味わいがある。

 具体的にも岩石にひそむ霊性を崇拝したのは、我が日本国民のみならず、ひろく、ヨーロッパは勿論、回教徒の礼拝するメッカの聖石の例もある。沙漠の中だから固形物たる石に神性を見出したのであろうといった単純なことではなかろう。

 行場は岩場〜であることが多い。修験道のメッカである大峰山中の様々な岩石に限らず、安芸の宮島・弥山々頂近くなどにも、海の潮と相通じている、干満石などといったものもある。

 四国へんろ中にも岩石にまつわる処も少くはない。大竜ケ嶽の大師ゆかりの求聞持窟、室戸の御蔵洞は特に有名である。もともと岩という字からして、石でありまた山である。土地そのものが磐石の上に坐してある。こうして、不動明王の台座を須弥山になぞえられると同様に地球そのものも一つの岩石の塊りに違いない。

 ここで一つ余談ながら、79号二面に”灌頂の滝に遊ぶ”の記事中、滝の中程の岩についての話であるが、この岩について、西端さかえ女史のへんろ記に言及しておられるのでおしらせしておく。



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