先徳の御阿礼(一)
〜同行新聞 昭和55年2月21日 第80号より〜



 〜高野山山主曼荼羅模様〜

 四国偏(ギョウニンベン)礼絵図中、序文作者、野山前寺務弘範、サヌキサミ島生れの聖宝理源、弥谷寺にゆかりある道範等の人脈に就いて述べんとするものである。

 そこで先づ第一に密教辞典に弘範の名を求めたのであるが、生憎と記載されていない。これでたちまちに万事窮すというところだが、ヘタな鉄砲数打ちゃ当たる。同一人物かどうかはともかく、弘範という活字を見付け出したのである。

・月輪観、一冊弘範撰
・阿字観次第(安流伝)、一冊弘範写

 右二ツの弘範が同一人物かどうかも今の所定かではない。また現在、原資料に目を通す程の御縁をいただいておらねば、止むを得ざることだが、いづれ時機を得たる人が調べることであろう。
 以上右二ツの弘範の名は、大野峻覧著・阿字観の手びき(高野山出版社)第五章に記載されているものである。

 四国偏(ギョウニンベン)礼之序によれば、弘範師は野山、つまり高野山の前寺務とある。寺務というのは、高野山の山主をいい、検校(けんぎょう)職である。
 〈寺務〉諸大寺に在りて寺務を総覧し大衆を統率する職を云ふ。寺務の名称は寺によりてその称呼を異にし東寺にては長者…座主…別当…長吏、金剛峯寺(高野山)にては検校と云ふ。
 時代の推移につれて寺務、検校、執行とか職制の変化もあるが、まあ一番エライ人、一国の首相の如き立場の人であろう。

 この高野山に於ける山主の中に、
第三百十二世 寺務検校弘範、宝暦七年検校に補す
という記事がある。宝暦七年は西暦一七五七年、二百二十四年前のことである。

 余談ではあるが、この山主次第(紀伊続風土記巻之五十五・紀伊郡第十四高野山之部四)によると、

第一世開祖弘法大師 弘仁七年此山に草創す
第二世後僧正真然  承和元年弘法大師当山の事を真然に委付す
第三世僧都寿長   仁和五年座主職に補す
第四世権律師無空  寛平六年座主に補す
第五世阿闍梨伝灯大法師峯禅  延喜十六年座主に補す
第六世僧正観賢   延喜十九年座主に補す。
是より当山の座主職は東寺長者の兼務となる。以下略す。

 この中二世の真然(しんぜん)は弘法大師のおい。また、六世観賢は、弘法大師のし号宣下に努力された人である。このとき醍醐天皇に霊夢があり、延喜二十一年十一月二十七日、奥の院廟前に、し号宣下の厳儀が行われた時に、わざわざ、更衣一領の下賜あり、観賢僧正手ずから、弘法大師様の御髪を剃り、新衣をきせられて、いわゆる〈御衣替え〉の大事をなされたことは有名である。
 この時のお大師様のおことばが、

我昔し薩た(土ヘンに垂)に値い
親しく悉く印明を伝う
肉親に三昧を証し
慈氏の下生を待つ

である。慈氏というのは、弥勒菩薩のことである。こうした事績からも大師の御入定留身の密意がのぞかれるわけだが、この観賢僧正が他ならぬ醍醐聖宝尊師のお弟子さんである。

 かって聖宝尊師が、ふるさとの讃州巡化の時、その奇才を見出し、京に伴ひ帰ったもので、十五才の時に空海十大弟子の一人である真雅に仕へ十六才で出家。伝法灌頂は、東寺の灌頂院に於て、聖宝師より授かっている。



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