山頭火九州33ヶ所放浪


 山頭火年表を拝見して山頭火が九州観音巡礼をしたとの記事に興味を覚え早速に関連HPを探してみました。

 ありました。九州西国観音霊場、《豊後国・高城山子安観音のHP》です。同霊場九番のお寺です。

 現在でも四国遍路をした人で九州に赴いた人の話を伺ったことが有ります。山頭火の巡礼はどんな物でしたでしょうか?山頭火は遍路をしたのではなく放浪もしくは漂泊をしたのでしょうか。少なくとも四国遍路をしたとは言い難いと思います。遍路でない人も四国を歩けば (うろつけば)、やはり一応それは遍路なのでしょうか?今流行りの変路人なのでしょうか?
〜H13/5/1 未完 独行坊〜

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 まだ山頭火の日記に目を通していませんので何とも言い難いのですが、山頭火の《九州観音巡礼》にはどんな意味があるのでしょうか。あったのでしょうか?

 こころを癒す『巡礼参拝用語事典』白木利幸(小学館)を見てみますと、●九州西国三十三所霊場が紹介してありました。〔宮崎県・鹿児島県を除く、九州を巡る広大な巡礼。「西国」は「西海道諸国」の略で、西国霊場の移し巡礼ではないとされる。我が国最古の観音巡礼といい、安政二年(一八五五)中津屋勘兵衛著『日本最初西国三十三番詠歌』がある。古くは筑紫三十三所と称していたが、昭和五十五年(一八九〇)に若干の札所の移動があり、現在の名称に改称した…〕

 文言どうり信じて良いものか、大変な内容です。ここは一つ小生所縁の資料から述べてみましょう。そんなに古いものではありません。昭和初期でしょうか。「積善施者丹生金太郎」とあります。


九州西国案内

一番 十一里 豊前国山川郡英彦山 多聞坊
二番 一里半 々 国下毛郡西 村 長谷寺
三番 三里 々 国宇佐郡長峰村 清水寺
四番 五里 々 国々郡南宇佐村 大楽寺
五番 四里半 豊後国西国東郡甲村 天念寺
六番 十二里 々 国東国東郡西武蔵 両子寺
七番 … 々 国速見郡別府町 宝満寺
八番 三里 々 国大分郡・田村 霊山寺
九番 三里半 々 国々郡桃園村 高城山
十番 十二里 々 国北海部郡川添村 円通寺
十一番 十四里 々 国三重町 蓮城寺
十二番 三里 肥後国阿蘇郡阪梨村 大山氏宅
十三番 十六里 々 国阿蘇山 西巌殿寺
十四番 六里半 々 国飽託郡松尾村 岩戸山
十五番 四里半 筑後国三池郡三池 普光寺
十六番 十八丁 々 国山門郡東山村 清水寺
十七番 六里半 々 国々 郡々 村 永興寺
十八番 三里 々 国三井郡山本村 観興寺
十九番 十一里 々 国浮羽郡水縄村 観音寺
二十番 六里半 肥前国神崎郡仁比山 地蔵院
廿一番 十四里 々 国小城郡清水 宝地院
廿二番 三里 々 国藤津郡竹崎 平井坊
廿三番 六里 々 国北高来郡ユエ村 和銅寺
廿四番 四里半 々 国々 郡諫早田結 観音寺
廿五番 七里 々 国長崎市八坂町 清水寺
廿六番 廿九里 々 国肥ノ御崎 観音寺
廿七番 十三里 々 国佐世保市福石町 清岩寺
廿八番 十里半 々 国東松浦北波多村 常安寺
廿九番 六里 筑前国糸島郡雷山 大悲王院
三十番 二里半 々 国早良郡油山 正覚寺
卅一番 四丁 々 国博多川端町 大乗寺
卅二番 四里 々 国博多小山町 龍宮寺
卅三番 彦山へ十二里 々国筑紫郡水城村 観世音寺


 まだ2001年(平成十三年)ですが、ことこの九州観音霊場百年足らずの変遷を眺めて見ても色んなことがありました。不完全な人間のすることだもの致し方ないとあきらめますか。積極的に欲望と言う名の海道を突っ走って来る島の渦潮に道行きしますか?こんな雑念妄想に戯れずに歴史的事実を詮索してみますか?昔アラブの偉い坊さんは〜王様でしたか…ルンバ?
H13/5/14

  

カット写真は一番御影札と9・12・13・30・31番の納経印などです。

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九州西国第九番
奉 納 経
(キリク)如意輪観音菩薩

昭和八年 高城
七月十五日 豊後国大分郡高城山観音院

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鎮西第十二番札所
本尊十一面観世音大士
東肥阿蘇宮地町
金剛山青龍寺

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九州西国第十三番 奉拝
阿蘇山
本尊 大悲殿
昭和八年 肥后坊中
七月十日
西巌殿寺

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九州第三十番 奉納経
国中十番
本尊千手観世音菩薩
昭和八年 福岡市東油山
六月十日 正覚寺

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御国中第九番
九州西国第三十一番
奉納経
弘法大師御作
本尊千手千眼観世音菩薩
亀山法皇・・所
福岡市大名町
六月九日 大乗寺

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 カットの中にある言葉から分かるのは、九州西国の中身が複雑なことである。これらのことは果たして地元の(つまり九州在住の郷土史家達、関係寺院)の人達によって整理できているのであろうか。部外者の余計な心配であろうか。

 まずはじめに四国88ヶ所ありき、次に新四国(今で言えばミニ四国)が続出。10数年前あたりから七福神や不動観音霊場が次々と新設された。近世にもお四国以外の霊場が各地に作られていたが、昨今の状況は目に余る。そんな感じであるが、大正・昭和の九州の様子を垣間見ても似たような動き=社会現象があったようだ。余り論走ってもつまらないが、気になることである。

 上述〈九州西国〉にしても、昭和初期ころであるが他に次のような霊場名がある。

 (鎮西)・(国中)=(御国中)である。ここには出していないが他の名称も見て置こう。

 {筑紫第参番清水寺}・{豊国第一両子寺}・{九州西国第十五番、当国第二十四番}・{九州西国第十六番、御国西国廿八番}・{九州西国第拾八番、筑後西国第弐番}・{筑紫第拾九番、筑後国第弐番}と言った按配である。その他にも、{鎮西西国}・{筑前西国}もある。

 乱立雑居もはなはだしい。幕末中津屋勘兵衛の気持ちもさもありなんかし。現代のお四国事情の一端も似たような精神の発露なのであろうか?
H13/5/18



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