阿波柳水庵のこと 下
〜同行新聞 昭和61年12月11日 第302号〜


その2

 ○柳の木・庵・水
    
 先に湧き出る水を柳の葉に形容して「柳水」というのだろうということをのべましたが、実際に柳の木があったようです。
 真念さんの「功徳記」の挿図にも、また寛政十二年(一八〇〇)の「四国遍礼名所図会」にも柳の木が描かれています。

柳の水、東山村より廿五丁上りあり、壱丁上にあるを樋ニて取。
大師柳の楊枝を以て加持志給ふ。

柳の木、水の側にあり。大師の楊枝を植置しが柳の木となる。

大師堂、柳の水側にあり。

庵、柳の水より上りあり。

 右引用文中、太字部分からすれば「名所図会」に描かれた柳の木と、「功徳記」に描かれた柳の木は別の処ということになります。また早渕屋弥市兵衛さんが据えたしるし石の場所も問題です。恐らくは湧き出づる場所に標石は置かれたのでは無いでしょうか。

 引用文中の「壱丁」というのは直線距離では無く、歩いての長さでしょう。とすれば現在の柳水のしるし石と大師堂との距離に近いものとなります。

 また大師堂と庵が区別してあります。庵というのは人の住まいする、いわば庫裡に相当するものでしょう。現在は大師堂のすぐ下に庫裡がありますが、かっては上(墓地の近く)にあったことがわかります。

 またここでいう柳の水というのは、しるし石の処から竹か何かの樋で引いて大桶(実際に絵のごとくあったのでしょう)に溜め水したのを言うのでは無いでしょうか。

 

 十二年前にはサッと通りすぎた処ですが、今になって「温古」す(古キヲタズヌ)れば、色々な事があったようです。

 残されたわずかな資料をたよりに昔のヘンロさんの歩みを―また積徳の善人の存在を偲んで見ました。

 注:「佐古町十一町目」は現在の鮎喰辺り。貴重な古記録です。



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