こんぴら里程石の味 ~同行新聞 昭和62年4月11日 第313号~

 その2

 こんひら大門( )十七里

 大門というのは山麓から石段を少し登ると道の両側にある店が途切れた処にある仁王門のことです。
 そこから十七里離れているという「里程標石」の拓本を修整したのがカットの図です。

 下部にも(左右にも)刻字があります。

 (正面)

 松山大見川中組
菅六良左衛門
和田折右衛門
与左衛門
儀平次
惣組中 善助

 (向左)

鉄右衛門
源‌
竹嶋勇右エ門

 (向右)

北松前丁 長門屋
半 兵衛

 以上の地名や名が刻んであります。

 実はこうした(同一の)里程石が伊予(こんぴら)街道にはたくさん設置してあります。

こんぴら大門‍ 一里
こんぴら大門‎ 二里
・・・・・

 一里ごとに、西へ西へと街道沿いに建ててあります。

 ここに紹介したのは「竹嶋勇右ェ門」という人の世話になるもので、ほとんどが「松山藩の人々によっ」て寄進建立されたものです。
 こんぴら伊予街道のうち、燧灘に面する辺りはへんろ道と重複しており、こんぴら参詣者に限らず、四国遍路の人々にとっても懐かしさを感じさせる石造物の一つなのです。

 現在の街道筋の町並も、大きく様変りしており、かってワラぶき家の片わらに建っていたごとき、立石の趣きは仲々に味わえない様になってきました。
 またワープロ文字とは違う、かなの書体にも時代の変化を感じさせられます。
 江戸前期の真念標石は勿論のこと、寛政から文化期の徳右ェ門標石の書体に劣らぬなめらかさです。

 厳密にいうならば、既に徳右ェ門標石にして、真念標石のもつ素朴な何かしらを充満している霊気において物足りなさを感じます。
 しかしそれは単に百年という歳月(風雨)のもたらした歴史の重たさにすぎないのでしょうか。
 単に一筆者の書いた刻字というよりも、やはり何がしかは当時の気風と、百年以上の歳月を感じ取っていただければ幸いです。


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