開導の鎮守社 ~同行新聞 昭和五十四年二月一日 第47号より~

 開導の鎮守社 (一)

 四国偏(ギョウニンベン)礼絵図中、序文作者、野山前寺務弘範、サヌキサミ島生れの聖宝理源、弥谷寺にゆかりある道範等の人脈に就いて述べんとするものである。

 南無大明神ーここに言う明神とは高野山の神さまである。何の神さまかというと、高野山上全体の鎮守の神さまである。この鎮守の社というのも、弘法大師様が高野の土地を天皇から賜って、いよいよ真言密教の根本理念とする金剛界胎蔵界両部曼荼羅の精神を伽藍配置等でもって具体化するにあたり、先づ最初に建立したのがこの鎮守社である。時に弘仁十年西暦八一九年のことである。村の鎮守の神さまの今日は楽しいお祭り日ーとうたわれているこの鎮守さまは、その地を鎮(おさ)める守神(広辞苑)といわれる。何を鎮めるのか、或いは鎮めるとはどういった意味のことかはっきりとしないのだが、古代東北のエゾを鎮める為に陸前の多賀に鎮守府が設けられたことなどと比較して、その土地の霊的に悪しき荒ぶるものを鎮めるということか。密教大辞典には「土地の守護神なり、寺院には境内守護のため皆守護神を祀りて鎮守と称す、教王護国寺に八幡大菩薩を、高野山に丹生・高野等の四社明神を………比叡山に山王七社明神を鎮守とするが如し。………地主神にして其地を守護する神祇を鎮守と称するは我邦の風なり。」と説明してある。

 元来真言教主大日如来を中心とする霊的体系は、インドの土地に溢れるばかりの神々をもその中に組み入れていることからして、日本の神々をも祀り込むということにも大した抵抗が無いのも当然であろう。無論、これは弘法大師様が丹生高野両明神との感応道交あってのことである。これは羊頭狗肉にたとへては誠に明神さまには失礼なことだけれども、決して、この鎮守の社におさまっておられるのが、名とは違った、密教教典上の地神とか、護法善神とかであるというのでなく、ともかくも大師在世の時分に、丹生・高野の名をもたれる日本の神霊が大師様の活動の精神に共鳴されたものとおもわれるのである。もっと強く大師様の行跡は、この大明神によって推進されたとも考えられる。

 このことは大師様とその守護善導せられた神霊とのことが所謂伝説とか後世の偽書とかによってしかうかがい知ることが出来ず、まあ極秘の事ではなかろうか。

 さて、この丹生明神・高野明神(狩場明神とも称す)は母神御子神の関係である。或いは夫婦神に見立てる考え方もあり、さらに丹生都比売(にうつひめ、丹生明神)は天照大神の妹神とも称せられる。四国八十八ヶ所の本尊が、行基作とか或いは空海作とかの由緒書を有する如くいづれの神様も天照大神とごく身近な関係で権威づけられているのではあるが、不動観音等全べて大日如来の化身であるといった考えと似たりよったりであろう。

 どうしてお大師様は、高野に自分の理想とせられる伽藍建立をするのに、天照大神とか天御仲主神とかの所謂有名な神様を勧請されなかったのであろうか。古事記所載の神々以外にも地方によって、それぞれ大物の神様がいたことは風土記などによってわかることではあるが、何よりも、太古より有縁の祭祀者(空海上人)を待つこと久しとは神々の良く述ぶる処である。いわゆる神託である。ちなみに、司馬遼太郎氏の『空海の風景』(下巻三一三ページ)では、神託の是非はともかくとして、その土地の丹生という水銀採掘者達に己れの求めている形状の山をおしえてもらったとして、その丹生津比売というのは彼らの氏神であったろうと推測しておられる。


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