異域地巡礼の納札研究
善通寺紀要 第18号より



 八、どうして江戸の人が?―伊予の秒除大師―


 若山家所蔵納札(報告書41‐35)、墨書。

伊豫村松武州江戸
南 無 大 師 遍 照 金 剛
○○ヌキ五左ヱ門願主 庄蔵

 この札はどのような意味合いに理解したら良いのであろうか?江戸の住人(出身)である庄蔵という人物が願主である。宝号(弘法大師への帰依文)の信仰表明をもって熊野街道を往来していたのである。

 問題は「伊豫村松」の「〇〇ヌキ五左ヱ門」である。何の為に熊野からは遠隔地の「〇〇ヌキ五左ヱ門」を宣伝して札を配布して行かねばならなかったのであろうか。「〇〇ヌキ」というのは「トゲヌキ=秒除」ノギヌキ、つまり魚の小骨が喉に刺さったときなどにお願いするお大師さんで、五左ヱ門という人がそのまじないを始めた行者の名とされているのである。

 しかし庄蔵はこの五左ヱ門さんを信仰しており、喉の刺さりもので難儀する人を助けるというのであろうか。とにかく「五左衛門さん々々々々さん」とお願いすれば喉の刺さりもの(秒=ノギ)がとれるのである。

 あるいは考えられることは、この五左ヱ門さんの寺庵建立の為に寄進して回国でもしていたのではなかろうか。ここは現在村松大師と称しているが、元々五左ヱ門さんが善根宿をした旅の僧に、「のぎよけ」のまじないを教わったことから大師堂が構えられるようになって今に信仰が続いている所。「のぎよけ大師」また「のぎとり五左ヱ門さん」などと信仰された結果、それらの御陰の証拠として、鯛の子骨や古釘などが沢山本堂前に奉納されており、旧伊予三島市指定信仰遺物(※25)となっている。

 現在は四国中央市の紙工場群にはさまれているが、三々五々お参りの絶えない番外霊場的霊地なのである。そのような場所について、何故江戸の庄蔵なる人物が、四国から遠方の熊野路でこのような札を所持していたのであろうか。

 参考までに新居浜の俵札に混じってあった五左衛門さんの守札(版刷り)を紹介しておこう。

悪虫退散豫чF摩郡村松
梵字ユ 奉念誦 秒除弘法大師 守護
五穀成就關 五左衛門


秒除大師札

 上部梵字「ユ」はお大師さんの種字であるが、さらにより大きな径四センチ強の円い朱印が押してある。さらに下部にはさらに大きい(径五センチ弱)角印が押してあるのである。おそらくは参拝の信者さん達に配られたものであろう、長さ十六センチほどの守札である。しかし朱の丸印と角印があり少し大仰な札ではある。江戸の庄蔵が持っていた札は版刷りではなく手書きであり、大袈裟なものではなかったが、四国伊予の小堂の信仰がこうして遠隔の地に伝播していた実例として考慮に値するものである。


 若山家所蔵納札(報告書54‐11)

 版 大乗妙典 日本廻国 天下和順 日月清明
 讃岐 高松 行者仙蔵 如来立像 梵字 朱印

 これは当初見落していたもので、再調査の際に回国札であり立像は阿弥陀如来であることを確認。回国札の数には入れておいたが、阿弥陀信仰札には入れてない。ところが四国伊予で眼にした中に同一人らしき行者回国の札があった。同じく版刷り札である。しかし内容的にはこちらは簡素なものであった。


讃州高松
○蓮台 奉納大乗妙典日本廻国
行者 仙蔵


仙蔵札

 蓮台上部○のところは墨がかすれて読めないが、梵字アかキリークだったのではと推測される。若山家の札には朱印があったが、こちらには無い。また阿弥陀如来の立像も見当たらない。つまり仙蔵はより進化?した、複雑な、有難味?のある札を用意したと思われる。それは信仰的というよりも、渡世的知識が深化したと見るべきものではなかろうか。

 年代的差異は不明であるが、仙蔵は四国辺路の時にすでに簡素ながら版刷りの回国札を用意しており、その時にすでに渡世目的の旅を意図していたのだろうか。


 若山家所蔵納札(報告書64‐45)

天下大平 信濃国水内郡柳原之産
南無阿弥陀仏
日月清明善光寺横沢町 了渕


了渕札

 墨書札。名号南無阿弥陀仏は善光寺の影響であろうか。了渕の名からすれば僧侶の様でもある。具体的な願意は不明である。実はこの了渕の札を四国で二枚ほど眼にしている。

 一枚はたしか同様の墨書したもので「信яP光寺、願主了渕」であった。もう一枚の方は大師座像のある四國八十八ヶ所順拝の既成版の札である。墨書部分は「信州善光寺 横さわ町 了渕」とある。同行は人数を書き込んでいない。何時のことかは委しく分からないが、ただこの了渕は西国と四国の両霊場を回ったことは確かなことのようだ。


 若山家所蔵納札五千枚の内わずかな事例であるが、四国でも確認できた同一人物の札を提示してみた。  


 総じて熊野街道若山家の俵札は、四国での俵札に比べて、講中札とか連名札、そして代参札に相当するものが少なかったように思う。しかし幕末期から維新期にかけて四国の辺路道にしろ熊野街道にしろ多くの人達が往来していた物証として、また信仰事情を考えてみる為にもこうした俵札に納められている納札資料は貴重な事には変わりない。巡礼札と違って、社寺の護符・守札の類は、これまた各々の地域性が多様に展開されており、これからも折にふれて納札群に限らず社寺札などの類にも目を向けて考えてゆきたいものである。

 今回充二分に納札について述べる事ができなかったが、いわゆる社寺札(護符・御札の類)について一点、注目すべき札について言及しておこうと思う。それは善光寺如来宝印と呼ばれているもので、四国で一枚程眼にしたもの。これが熊野若山家の納札群のなかにあった(26―53)。これは町田市立博物館図録、第七十八集『牛王宝印―祈りと誓いの呪符―』に三点ほど紹介してある。

 善光寺での正月行事「御印文頂戴」(※26)の際に配布されるものと言う。極めて珍しいふだである。しかしこの印の名前がはっきりとしていないのは印字難読の為と思われる。「本師如来」と「牛王」、残りの二字が問題。一字目は口ヘンに「僉」。「あぎとう」と読み、魚が水面に浮かび口をぱくぱくする様、を言うのである。まあ現代風の表現では「鯉パク」と言ったようなことか。そして次の字であるが、「印、もしくは仰」、筆者は一応「仰」と読みたい。池の鯉が餌を欲しがっている姿を想像すればよい。

 つまり善光寺如来宝印といった名前は、より具体的には本師如来「ゲン・ギョウ牛王」と称すべきものなのである。(※27)


 なぜこの札について拘るのかと言えば、実は四国における善光寺信仰の発展とか諸相と言う問題を考える際にどうしても無視できない存在であるからである。

 いずれにしろこの牛王札は巡礼者が持ち込んだものなのか、家族の誰かが善光寺参りを果たして持ち帰ったものなのか不明。とにかく希少な札であった。最近脚光を浴びているヨーロッパにおける日本のお札コレクションでの扱いが気にかかる。(※28)


※25 『伊予三島市史』。
※26 行事については『日本の護符文化』千々和到編,弘文堂を参照。
ここではこの宝印については記していない(p321-323)。
※27 喜代吉『四国辺路研究』第十四号二十六頁参照。
※28 『千々和前掲書。B・ベルナール・フランク著、仏蘭久淳子訳『日本仏教曼荼羅』
『「お札」にみる日本仏教』、藤原書店、参照。




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