辺路札所、称呼の変容・跋扈について
善通寺紀要 第16号より



 一 石鎚山に関して、札所の変遷を考える その2


 〇六十四番札所「里」前神寺のこと

 六十四番札所の納経印を見てみると次のようになっている。古いところでは宝永〜正徳年間(十八世紀初期)空性法師の納経帳。これは、辺路というよりも回国行的な趣きが強いものである。
 宝永七年(一七一〇)十二月に淡路の「一宮二柱尊御宝前」、そして翌八年正月に淡路の国分寺の参拝を済ませてから四国路阿波に入り、井戸邑妙照寺(十七番相当)、観音寺(十六番)、国分寺(十五番)へと辺路修行を始めたものである。一度の旅で四国路を一周したものではない。
 ここでは六十四番相当の前神寺の納経受領記事に注目。

奉納普門品 壹巻
豫州新居郡石鎚山前神寺
大悲蔵王権現御寶前
 正徳元年七月六日別當法印 *角印が菱形に捺してある。
回国行者
 空性法師


 これは正徳元年一七一一であるが、別當の言葉からすれば納経受領の場所は現在石鎚神社となっている旧寺地(西条市西田)であろうか。すでに真念法師の『四国辺路道指南』貞享四年一六八七の出版でも紹介している、その「六十四番里前神寺」などの「寺番」や「里の寺号」はここでは使用してない。空性法師が「回国行者」であったが故に辺路(行者)とは違うという認識が双方にあったのかも知れない。
 なおこの際横峰寺の方も紹介しておこう。

 奉納普門品 一巻
 本尊大日如来春日作 
与州石山 横峯寺
正徳元天七月五日
 修行者 空性房


 こちらでは「修行者」となっている。奉納したのは同じく普門品である。  
 さて前神寺であるが、「別當」の語は本体があってその補助的な働きをするゆえに「別」の言葉を与えているのである。神社における別当寺院というのは、事務的なことは、特に納経受領の作業などは別当が為したという風に考えられるのである。こうした意味では札所の「代理」という面と同様な立場にある。
 「鉄ノ鳥井」と言う場所が石鎚山遥拝の場所として重要な地点であるが、納経受領という実務の為には人の手をわづらわさなければならず、その意味では遅くまで横峰寺が石鎚山(蔵王権現)の別当職を主張していたのである。
 次に安永三年一七七四の回国納経帳を紹介しよう。これは中条尼こと小野義鶴という伊予出身の女性が回国途中に辺路したときのものである。

奉納
伊豫юV居郡西條之庄
山大悲蔵王権現
御寶前 別當
 御室御所院室釈迦牟尼院家
 金色院前神密寺
 里寺納経所役人
安永三午年
 九月廿六日
 行者丈


 御室(京都仁和寺)の院家が関係しているのはともかくとして、前神寺が石山大悲蔵王権現の別当職にあり、実務者は里寺納経所役人と名乗っている。なお四国辺路札所としての六十四番ということは問題としておらず、ただし別当職として、「納経」の事務はこちらで扱うということを強く主張しているのである。やはり横峰寺の存在を意識してのことであろう。霊峰石鎚山より十里余りも離れた霊山を真近に拝することの出来ない土地(里)にあるのに、納経事務はこちらであるというのである。まさに代理的事務札所であるのだが、こうして「里前神寺」時代を経て、一度は廃寺の憂き目に遭うものの、霊山の納経事務の代理であることは時代とともに忘れられて、前神寺は四国霊場六十四番札所として確定していくのである。なお同じく小野義鶴女の横峰寺の納経印版を見ておこう。

奉納経
 本尊大日如来
豫州 佛光山石
 別當 横峯寺
行者丈



「御宝御所院室釈迦牟尼院家 前神密寺里寺納経所」安永三年

 ここでは問題なのは石「社」の別当と称していることである。「石山蔵王権現」の別当では無い。当時横峰寺と前神寺の別当職争いは明和六年一七六九の『(両寺)論条御裁断之事』で一応の決着をつけていた。それをふまえた上での両寺の納経受領の文面になっているのである。 

*「石鎚山の別当問題」一九九二 『郷土史談』第一九八号
 『四国辺路研究』第十三号に再掲、一九九七

 里前神寺について今少し整理してみよう。

@前神寺トテ札所在リ、是ハ石槌山ノ里坊也  澄禅『遍路日記』一六五三
A六十四番里前神寺…まへ札所なり。本札所ハ石つち山前神寺 真念『道指南』一六八七

 実は前神寺については里前神寺ともう一点「奥前神寺」の呼称についても考慮しなければならない。
 前記Aのごとく真念時代には本札所と言っている「石つち山前神寺」についてであるが、ここに言う「石つち山」は山容そのものを言うのか、あるいは山号なのか?である。山号とすれば本札所を、山容を望む常住山側にあったとされる寺院を指していることになるのである。
 つまり霊地(山頂)を指して本札所というのか、人工的構造物たる寺院(古くは行者小屋程度?)を指して言うのか。どちらであろうか?真念時代にはというか、真念は霊山石鎚山への登拝は避けて(出来ないので)、里前神寺に札を納めれば良いとしているのである。ここには石鎚信仰と遍路信仰の分離が起こりつつある。
 同時代寂本の『霊場記』(元禄二年一六八九)では、「石山奥前神寺を金色院と号す」という記述が見られ、前記本札所たるべき常住にあった寺院が既に「奥」前神寺と呼ばれているのである。このことは常住での寺院経営の難儀さ故に経営実務の主体が里寺側に移行していることを物語っているのではなかろうか。


「横峰寺」

 横峰寺管轄の鉄の鳥居側からは、天候次第であるが実際の山容を拝することが出来るのであるが、前神寺の里坊からは実際には拝することが出来ない。そこで永年石鎚山蔵王権現の祭祀権=別当争いが演じられたのである。これが廃仏希釈時代には、新たな祭祀媒介として石鎚神社が廃寺のあとに設けられていまに継続している。
 横峰寺との差し縺れに関連した動向に強く影響したと考えられるのは、「釈迦牟尼院室兼帯」ということである。前神寺が本山「御室御所」の「釈迦牟尼院室」を兼帯していたのである。実際は御室御所に席(釈迦牟尼院室)をおいた僧が、四国の札所寺院の主職を兼ねたと言うべきであろうか。
 院室の意味するところがよく分からないのであるが、地方の末寺にとっては本山の御威光に逆らわれないのは当然の事である。しかしこのことがどれほど両寺院指し縺れの裁定に影響したものか。札所六十四番里前神寺が「里」の字を取り除いて四国六十四番前神寺として確固とした存在になる起因であったと言えるのではなかろうか。



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