四国辺地の草堂・真念庵
〜昭和63年(1988年)・6月15日号より〜


 五、道標石

 巡礼の道すじに迷途おほきゆへに、十万の喜捨をはげまし標石(ひょうしゃく・しるしいし)を建おくなり……

 真念は『道指南』で、道標石を設置したことを述べている。その記事中には三十基ぐらいしか紹介していないが、実際には二百余ヵ所に立てたという(『功徳記』跋辞)。

 現在筆者が四国路でじかに確認した真念の道標石が二十六基である。わずかな数であるが、これらの標石の施主には出版助縁者として江戸・京の人の名も見られる。

 四国編路史上、道標石の設置に即してみても、真念の活動は江戸前期最大の事業であった。真念の道標石以前には四国全土を対象とした標石は無かったようである。地域的な霊地に対するしるべ石――町石は古くからあったようで、阿波では貞治年間(十三世紀中頃)のものがある。二十番札所鶴林寺と二十一番太龍寺への町石である。

 その他、澄禅の『四国編路日記』(承応二年、一六五三)には、四十四番菅生山大宝寺や五十二番太山寺、八十四番屋島寺への町石が記録されている。しかしこれらは飽くまでも特定の場所に対するものであり、四国全土に及ぶ「へんろみち」のしるべ石設置は、真念をもって濫觴とする。

 標石を「しるしいし」と訓じているのは、印石(ある場所の目印石)をも含んでいるからであろう。『功徳記』下巻の挿図に注目したい。十一番より十二番への山道の話であるが、「……是を柳の水といひ、楊枝の水ともいふ。しるしの石あり」とあり、そのしるしの石が描いてある。駒型の石の表面に「柳水」とのみ記してあるが、実はこのしるしの石が現存している。図示された「しるし石」として貴重なものであり、真念の名は刻んでないが、当然に何らかの関わりあいがあったと考えられる。記念銘も延宝八年(一六八〇)とあり、真念の活躍期と一致する。

 一方、筆者が確認した「真念型」の道標石二十六基には、破損した一基を除きすべて真念の名を刻んである。

 真念標石の特徴は「右」或いは「左」という語が刻んであるということである。それは迷途(分岐点)での行くべき方向を示す為である。目的地への距離を示した石もあるが、何よりも左右の方向を主に立てている。また全部にではないが「南無大師遍照金剛」の御宝号を刻んでいる。大師信仰に生きた僧だけに当然であるが、それだけに道標石に大師の魂が籠められているように思われる。

 また建立年を記したものは一基しか確認できない。それは足摺山から打ち戻り、三十九番寺山延光寺への道筋にある。その標石の正面には「右遍ん路みち 左大ミづのときはこのみちよし」とある。大坂の五良右衛門という人が施主となって「貞亨四丁卯三月廿一日」に立てたものである。この貞亨四年(一六八七)は、冬十一月に『道指南』が出版された同じ年に当たる。そしてこの記念銘のある標石のあたりについて次のように述べている。

  是(注=三十八番金剛福寺)より寺山(注=三十九番延光寺)迄十二里、右真念庵へもどり行。真念庵。成山村。おほかめうち村、真念庵より是迄山路渓川。上ながたに村、志るし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし……

 この引用文にいう「志るし石」が他ならぬ貞亨四年銘のある標石である。そしてこの標石より少し手前の処に真念庵がある。正確にいえば、「右てらやまみち五里、左あし春り山みち七里」の真念標石から一丁程の所である。



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