四国辺地の草堂・真念庵
〜昭和63年(1988年)・6月14日号より〜


 一、はじめに

 瀬戸大橋の完成によって、今、四国の地が脚光を浴びている。瀬戸の海をはさんで対岸の地――岡山・広島・山口県等の人々にとっての四国と、また遠隔の地――関東をはじめとする北日本の人々にとっての四国には、それなりに違った趣があるであろう。そして徳島・高知・愛媛・香川の四県をぐるりと一巡してあるのが四国霊場なのである。

 真言密教系の行者は、若き日の空海の修行の跡をたずね、同じ求聞持や山林抖の修行をして回ったのである。その跡がやがて四回遍路の道に固定されてきたと思われる。空海自身が偉大な遍路行者であった。

 しかし、その時には四国の霊地には「八十八」という限定数は無かったのである。なぜなら、八十八ヶ所という実数は、ほぼ室町期には完成していたとされるのである。が、空海の修行時代には、八十八の寺院よりも、所縁の土地での修行練磨を目的とした行脚であったからである。

 そうした実践者達の拠点としての草庵だったものが、時代と共に発達して現今の札所寺院になっていった。それが少なからずある。

 空海以降――御入定後、その古跡霊地を巡った者の数はいか程であったろうか。いずれにしろ江戸時代の遍路者にくらべ、江戸期以前にはごく限られた小数の修行者たちが四国路へと足を踏み入れていった。いわばそうしたプロの修行者たちにくらべ、庶民と称される人々が四国編路できるようになったのは、また違った型の大師信奉者が出現する必要があった。

 それは空海の古跡よりも、より直截に空海の人格・霊格を求めたものである。空海の修行のマネをするというよりも、垂直的感覚でもって空海(弘法大師)を意識して、四国路における臨在を確信しはじめた所に「同行二人」の信仰が確立したといってよかろう。

 この四国路での臨在信仰によって庶民遍路が盛んになると共に、さらにはそうした四国遍路者こそ弘法大師の身代わりであるといった信仰が生じ、善根接待の美風も益々行じられるようになった。ここに四国路で弘法大師を媒介とした在地の人々と遍路者の温かい交流が起こった。今回は近世遍路の拡がりを支えてきた真念法師の周辺を探ってみる。



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