土州十七ケ所遙拝処補稿 ~同行新聞 昭和62年3月11日 第310号~

 前回(本誌299号)では、三十番札所が二ヶ寺であるから、それで土佐の十七ヶ所とあるのであろうか、と書きましたが、今一つ考えられるのは「女人札所」のことです。

 土佐24番東寺も「女人結界」がありましたが、26番西寺(金剛頂寺)の女人結界が問題です。古い絵図にも「キャウトウサキ 不動尊 女人此所ニ札ヲサム」とあり、この女人札所を加えて十七ヶ所という見方もできます。
 これは幕末期の女の人の納経帳で土佐を通行しているのを目にすれば良いのかも知れません。以前に西寺の女人堂の納経を見たことがあるのですが、その時の24番東寺の方の納経印がどうなっていたのかは覚えていません。
 不確かなことですが、一応土佐の十七ヶ所ということを考えるのには考慮しなければならないことでしょう。

 さて、前回(299号)使用したカットの納経帳から、土佐を省略した場合の四国遍路の道筋をたどってみましょう。
 安政三年(一八五六)丙辰の二月から順拝し始めています。一番霊山寺を打ち始めたのが二月三日のことです。

 以下札所は番号のみにて略記します。

 1(2月3日)・2,3(2月4日)・4(五番奥之院五百大阿羅漢)5,6,7,8,9,10,11(柳水庵)・12(杖杉庵)・13,14,15,16,17,18,19(3月10日)・20,21,22(3月11日)・23(3月12日、土州遥拝処)・(箸蔵寺、3月17日)・66(3月18日)・(椿堂)・(仙龍寺、3月18日)・65(3月19日)・64,63,62,61(3月21日)・60(生木地蔵)(臼井水)59,58,57,56,55,54,53,52,51(4月3日)・50,49,48,47,46(4月3日)・45,44(伊豫〇〇四ケ所遙拝所)・67,68,69(4月9日)・70,71,72,73,74,75,76,77(4月11日)・78,79,80,81,82,83,84,85,86,87,88(4月15日)

 以上の通りです。遍路の前か後か不明ですが、子の年の三月廿日には高野山の奥之院にも参拝して納経印を貰っています。
 この納経帳によれば2月3日出立、4月15日結願ですから七十日余りの日数を費やしています。

 土佐の札所のみならず、南予の四ヶ寺(40番観自在寺・41番龍光寺・42番仏木寺・43番明石寺)を省略していますので、四国中を一巡するのよりは距離が短縮されています。それなのに七十五日という日数は、この納経帳の巡拝者が健脚でなかったことを物語っています。

 1番から23番までを打って、そこから箸蔵寺(徳島県三好郡池田町)に参り、66番雲辺寺から伊予路を逆にめぐります。そして44番大宝寺。カットのように、ここに南予の「四ヶ所遙拝所」があったようです。


 これからまた讃岐におもむき、67番小松尾寺(大興寺)から88番まで順に打っています。

 尚、参考までに伊予の人の場合(土佐十七ヶ所と南予四ヶ所省略)の日数をみてみましょう。

 文久三年(一八六三)、安永米次の場合、所要日数36日、次に明治三年、米蔵は26日、同じく八年、安永某の場合は25日となっています。(「おへんろさん、松山の遍路と民俗」松山教育委員会による)
 「伊予の走りヘンド」といわれるのもムベなるかなといった処です。


〇月山

 本来土佐の札所は十六ヶ寺なのに何故十七ヶ所かということですが、やはりこの月山を含めて十七ヶ所といったもののようです。

 土佐の資料(憲章簿・遍路の部)に次のようなものがあります。

御国中札所之事

東寺 津寺 西寺 神ノ峰 大日寺

国分寺 一宮 五代山 峰寺 高福寺 種間寺

清瀧寺 青龍寺 五社 足摺山 寺山 又ハ月山

 つまり十六ヶ寺の後に、「又ハ月山」と附記してあるからです。本来は十六ヶ寺ですが、月山を札所の数に入れるというのです。いわゆる番外の札所としても格別に考えられていたのがわかります。


〇安政の大地震

 これは安政といっても、嘉永七年(一八五四)の十一月五日のことですが、マグニチュード8.4というもので、この際の津波がまたものすごかったようです。

 関東から九州に至る沿岸を襲い、大変な災害をもたらしたものです。それ故に年号を嘉永から安政に改めたものでしょうか。十日もたたない十四日には次のような処置が土佐でとられています。

就大震辺路入込処ヨリ村継ヲ以御境目江可送出事

 覚

此度之変ニ付、別面里前往還筋大破ニおよび、

辺路共順路難相成ニ付…村継ヲ以可送出旨…

安政元寅年十一月十四日

 こうした事情がキッカケとなり、土佐への入国をあきらめ(実際に23番薬王寺で土佐への入国を差し止めたのかも知れない)て、伊予讃岐を巡拝したのではないでしょうか。

 南予四ヶ所は、逆にめぐるのに日数(往復)がかかりすぎるのでこれも分離省略したようです。(43番から44番は、相当な長丁場ー徳右衛門標石によれば「ニ拾壱里」あります)

 現在の処、土佐十七ヶ所の省略は安政期以降の納経帳に見られることからしても、やはりこの安政の大地震によって土佐路が通行不便となり、さらに辺路に対する排斥姿勢も手伝っての結果であったのでしょう。

 土佐の遍路さんは勿論、十七ヶ所遙拝の印をうけずに巡拝しておられたようです。


その2 / 目次