土州十七ケ所遥拝処 ~同行新聞 昭和61年11月11日 第299号~

〇十七ヶ所のこと

 本来十六ヶ所であるべきなのに、どうして一ヶ所多くなっているのでしょう。
 当初は番外の札所「月山神社」―38番より39番への中途にある―を加えて十七ヶ所かとも思いました。
 しかし、坂東氏が述べておられるごとく、三十番札所が二ヶ寺あったからかも知れません。
 坂東氏の紹介しておられる納経帳の「子」の年というのは「嘉永五年」か、もう一回りして「元治元年」のことと思われます。
 しかし、その当時の三十番は何故に二ヶ寺で納経していたのでしょうか。筆者の目にした納経帳には次のように記してありました。

 まず弘化四年。

奉納

正一位高鴨大明神

一宮 善楽寺

未三月十日

 そして弘化五年のもの。

奉納土州一之宮

奉納阿彌陀如来

月日 別当神宮寺

申三月十七日

 最後の一行(日付)は墨書されていますが、他は木版となっています。また先の弘化四年の方(善楽寺)は全て墨書したものです。
 神宮寺と善楽寺のどちらも一宮(神社)の別当寺(社僧)です。

 真念さんの「道指南」に記してあるように、三十番札所は「一之宮」です。それが時代と共に別当寺の方が強く意識されてきたのでしょう。それ故に江戸時代中期から後期にかけての納経帳には、神宮寺があったり、また善楽寺の名があったりします。
 但し坂東氏が紹介されているような、二ヶ寺並記のものは珍しいのではないでしょうか。

 なお「四国八十八ヶ所霊場会 先達必携」(昭和五十八年版)には三十番は「安楽寺」となっています。ただし御詠歌には昔ながらの「人多くたち集まれる一宮昔も今も栄えぬるかな」(善楽寺)、をのせてあります。


〇土佐の事情

 一応遥拝所の場所と、十七という数についてのべて見ましたが、次に「何故」このような十七ヶ所遥拝所ができたかということについてはどうも確証が有ません。

 まず考えられるのが、土佐の遍路に対する対策が厳しかったことでしょう。
 天保時代になると殊にうるさくなっています。このことは本誌237号拙稿「天保時代のお接待」で紹介した記録からも察せられることです。
 また土佐の事情とは別に遍路はしたいけど家を長期間にわたってあけられない人々が、七ヶ処参り、」二十一ヶ所、一国参り等にあき足らず、土佐を省く(南予四ヶ寺も省く)遍路形態を作ったのかも知れません。



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