駄家通信 18


H24.11.13 / H24.11.28 追記
【辺路札種々】


西国札

 まず@左札。
「奉納西国三拾三所同行二人」「安政三年辰二月」「与州西条新居郡 城下喜多川仙蔵」
 西暦1856年。現在の愛媛県西条市の人・仙蔵が西国33所巡拝の旅に出かけた途次、新居浜の地に残した札である。本来は西国巡拝のもくてきのものであるが、四国内においては辺路札と何ら変わりは無い。じつは先月三重県の尾鷲《熊野古道センター》に赴き田善根宿の俵札資料を拝見しに行ったのであるが、驚いたことの一つに西国巡拝に及ばぬものの相当数の四国88ケ所遍路札が交ってあった事である。
 どうでも良かったと言えばそうなのであろうが、社会体制の緩みがこうした信仰者の所持する御札などの有りようにも伺う事が出来る。島外から四国路に入った人は、その入港した港から当該「船揚がり切手」所持の確認の上でなくては離島することが出来なかったのである。四国内他国の遠隔地から村次によって運ばれた病者遍路は、揚げ切手不所持の故を以って、「村次送り」出し始めの村にまで送り返された例もあったのである。行政上の書類「舩揚げ切手」と信仰上の個人的な巡拝札は事情が違うと言う事なのであろうか。少しは幕藩体制の綻びをこうした辺りに見出す事は如何?

 A中札
 これは氏名不明の四人もしくは三人の札。四国西国番東秩父とある。「番東」は当然に「坂東」であろう。日月清明・天下泰平はわかるが、次の三цタ「 」が不明。
 三рヘ三河で讃岐の事では無かろう。誤字よりも、同行(三人?)の名前を書くのにも大変なので省略したようである。

 B右札
 これは四国辺路札であるが、添え文が面白い。
 まず「奉納四國八拾八ケ所順拝」。「天下泰平・日月清明」  「信州筑摩郡野尻村 浄雲坊 ・テ秤算盤 手尓モチ 不申候」
 そして札の中程向って左には、「四国順拝間」とある。
 どうやら辺路中の身であるから金の計算はしない、と言ったようなことか?
 僧侶ならば当然の事であるが…。天候や国家の安全に加えて、具体的に自身の態度を表明している所が面白い。病状回復祈願よりは今少し精神に余裕が窺える珍しい札である。
 在り来りの表現にとどまらず自我意識?個性?の強く発露された有色札である。



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