木食僧仏海さんの話
〜同行新聞 昭和62年6月1日 第318号〜


 木食僧仏海さんの話 4


 〇寿像(じゅぞう)

 寿像というのは、生前に作る記念の像をいいます。仏海さんが二年間居住して千体の地蔵尊を刻んだ、仙竜寺(65番三角寺の奥の院)にこの《寿像信仰》が伝わっています。

大師十八歳ノ時此山ヲ瀬分サセ玉テ、寿像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。
澄禅・四国遍路日記

 この寿像が本尊として今に信仰されています。仏海さんも二年間も滞在しておられたので、よくこのこと(弘法大師の寿像)を承知しておられたのでしょう。
 また故郷猿川にも大坂の大仏師・田中主水の手になる「木食仏海像」が祀られています。これもやはり寿像です。
 生地の木食庵の寿像に対応するかのように、当地入木の庵の宝篋印塔に我が身の姿をのこしたのは、そこを自身の入定(留身)の地として決心したからと思います。
 《入定留身》というのは高野山の奥の院におられる高祖弘法大師の誓願です。真言宗・弘法大師の末徒として、木食仏海もこれに倣(なら)ったものでしょう。
 寿像の左右には次のように刻んであります。

奉読誦法華千部

如意満行供養塔

 つまり、この寿像をすえた宝篋印塔は法華経を千部読誦した記念の供養塔なのです。


 〇千部経

 昨年本紙に掲載された「親子巡拝日記(野村宝秀記)」の三回目(288号)の記事に「千願経」というのがありました。
 具体的には何のお経をどのようにするのかは記してありませんでしたが、これは「千部経」の名残りではないでしょうか。「千巻経」ということでしょうか。

『一宮の千部経は、山内一豊が入部の後、長宗我部元親が国分寺で行っていたものにならったものといわれている』―近世土佐の宗教―

 千部経というのは、お経を千遍読むことですが、一人では大変なので多数の僧侶を招請して行われます。
 土佐では毎年のようにつづけられたということです。七日間にわたる大法会で、参詣人も多く大変な賑わいだったようです。
 ところが仏海さんは一人で法華経一部(観世音菩薩普門品などが二十八含まれる)を千回読誦されたようです。
 その時に次のような板を残しています。


 ○奉讀誦法華経千部萬民除災與楽祈所

 宝暦十一年七月にこの千部読経を開始されたようです。
 この時には「修真言者・木食仏海」と名告っています。真言行者には変わりありませんが「高野山」という表現が消えています。
 ということは、弥々仏海さんは当地にとどまる決心をしたからでは無いでしょうか。
 そしてこの千部読誦が成就したのが宝暦十四年の三月ーつまり寿像を納めた宝篋印塔がこの満願記念に建てられたのです。

 もう一度想い出して下さい。寿像の脇には「奉読誦法華千部・如意満行供養塔」と刻してありました。
 そうすると仏海さんは法華経一千部読誦を、二年と九ヶ月で成満(じょうまん)していることになります。つまり三十三ヶ月で一千部ですから、ひと月に三十回。一日一回、法華経一部の読誦を千日続けたことになります。


 〇入定留身(にゅうじょうるしん)

 有難や 高野の山の 岩かげに 大師は今に おはしまします

 ―これは弘法大師空海の入定留身をうたったものです。
 仏海さんの替え歌にすれば、

 有難や 入木の里の 塔の下 仏海さんは 留身まします

 ―下手な歌で仏海さんには申し分けありませんが、大師の末徒として、四国の辺地に入定留身された木食仏海さんの徳をしのびたいと思います。



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