木食僧仏海さんの話
〜同行新聞 昭和62年5月1日 第315号〜


 木食僧仏海さんの話 2


 〇三角寺奥の院

 六十五番の奥の院は仙竜寺といいます。仏海さんは一千体施仏を成就した翌年、再度四国に渡りその途次にこの奥の院仙竜寺にて、

高祖大師ノ遺跡ヲ拝シ信心忽ニ発シキ

つまり強烈な霊感にうたれただちに地蔵尊一千体の刻彫を誓願して、山に籠りました。

山ニ居ルコト二年。功成リテ小堂ニ安置シ退山。

三十四歳の春には成就したのでしょうか。それからしばらくは四国路にいて故郷猿川にも足を留めたことでしょう。

 三十五歳の時にようやく高野山に戻り、四度加行(真言密教僧としての修行)を成就して、伝法灌頂を受けています。
 つまり真言密教の僧侶として一人前になったということです。
 これからまた高野山をあとにして廻国の旅に出ますが、途中愛媛県新居浜の大島に立ち寄り、百体の地蔵尊を彫刻しています。
 これでようやく三千体に達したということです。
 二十七歳の時に地蔵尊の刻像を始め、丁度十年で三千体を造ったことになります。
 途中高野山での修行もあり、一年で三百体平均ー約一日に一体を彫った計算になります。


 〇廻国納経

 三十七歳より中国や九州などを廻国しています。これはそれ迄にまだ行脚していない地方です。こうした所々の寺院(仏海叟伝には道場と言っている)などに大乗教の諸経(法華経・理趣経・阿弥陀経・地蔵本願経・金剛般若経等)や諸々の真言陀羅尼等の書写したものを奉納しています。
 こうして三十九歳、寛延元年(一七四八)に日本国中の廻国行脚を成就しています。
 そして九月十八日より二十四日までの一週間、大坂天満の国分寺で、数多の僧侶を請じて「土砂加持」の法令(※法会)を営み、自身の廻国成就成満の供養をしています。
 十三歳の時に抱いた宿願を果たし、仏海さんもどんなにか嬉しかったことでしょう。


 〇霊験

 四十歳の時には、故郷伊予北条の猿川村に帰っています。
 一先ずは諸願を成就したからでしょうが、ここでも仏海さんの仏道修業は続けられます。
 先の大坂国分寺での法会といい、既にこの当時の仏海さんの財力並びに信者層の厚かったことがうかがわれます。
 猿川ではまず法華経や地蔵本願経等を一字一石に書いて地中に納め(埋経)、宝篋印塔を造立。そして古い草堂を修理し、新たに信州善光寺一光三尊之如来像を模刻して、開眼供養しています。
 それからつづいて西国三十三観音霊場の写しをこの地方に開創しました。
 宝暦元年もしくは二年には観音霊場が開かれていたものと思われます。



 以上あらまし仏海さんの前半生をのべてみました。これは、故郷の近くの僧・寛応さんが寛延三年(一七五〇)に誌したものを、二年後の宝暦二年に仏海さんが書写したもの(もしくはその写本の写本)によりました。
 つまり宝暦二年、木食仏海四十三歳は、故郷での仏行作善を終えての節目にあたり、それまでの人生を区切るべく『遍照庵中興木食仏海叟伝』を書写して残したものと思われます。

 〔補記〕『仏海叟伝』の全文はわずかなものです。拙著「奥の院仙龍寺と遍路日記」に全文を紹介してあります。


 追記:この『仏海叟伝』はその後1987昭和62年12月発行の『木食僧仏上人伝』に掲載、詳述しています。この本は国会図書館に寄贈してあります。
 なお仏海さんについて、浅井證善「四国遍路と弘法大師信仰―仏海上人の場合―」=「印度学宗教学会・論集、第31号、平成16年」を参照されたし。 H17.12.21 独行庵記




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